目指すところ

自分の理想や超えたい壁を登るための手立てを模索している。

 

師匠がいればそれも苦労しないかもしれない。

 

いや苦労してどんな施工者と対峙しても設計者として生きていきたい。

 

ところが図面を書けない施工者ほど怖いものはない。図面を描くという、能動的な作業をせずに、本当にこちらが考えていることが伝わったとはやはりどうも思えない。

 

デザイン図をもらい製作のための図面をかく仕事も個人でやっていると、ただ図面を起こすだけの作業のように見えて、実は結構考えることになる。施工手順、区分、発注方法など、組み立てのことも考えるからだ。

 

そのことを知っていると図面書かずになぜ理解できたと思えるのだろうか、不思議でならない。

 

設計者は、施工者の経験を超えて(施工者の経験を活かさないわけではない)そこに相応しい空間や、自然な納まりを踏まえつつ、やはりそこに新しさや、その現場に統合された意志を持ちたいものである。

 

その場所場所での判断が、心の通った意思が、点となり線となり面となり、統合されていくはずである。

 

実施図は、何の意味があったのか、工事が始まってから図面がたくさん出てくるのは追加工事ではないのか、そんなこと、考え続けてるのだから当たり前だろう。現場は生き物で、設計者の実測を超えたプロの体に染み付いた手慣れた手つきが必要である。ただ設計者がいる以上、そこでの選択肢を潰し、1つの判断をするのは大工ではなく設計者なはずだ。特に見え方に、視覚に関わる部分については。さらには性能に関わる部分については。大工は空間を操るのだろうか、物作りを操るのだろうか。

 

やはり空間は設計者が操るべきものだと信じたい。体が資本ではなく、頭が資本である設計者。理知的な構想と、それに編み込まれる神経の通った実行。これらは断じて別個に考えてはならず、高めあう必要のある職能同士なはずだ。