いつからだろう。母親とまともに会話できるようになったのは。生活のこと、職業のこと、恋愛のこと。僕が大人になるたびに、深く広く聴き入れ、諭してくれる。

 

母親は血縁がある。

そのためかわからないけど、潜在的に物事への視座も近い部分があるかもしれない。

最近気がついたことは、血縁のない他人と、この物事への視座を深く共有できる楽しみが、人生を豊かにする一つの道標なのではないかということ。多くを共有すればいいというわけではないが、時間や空間を共有することで、信頼性を高め、より深い対話ができるようになるのではないかということ。

 

趣味趣向が同じ、とは違う。全く違う。

価値観が近い、とも違う。

違うことを受け入れ、同じ方向を向き、螺旋のように強固な繋がりを持っていく。

 

そんな人間関係を築き上げることができたらどんなにいいだろう。脆弱な「安心」(何も起きないから大丈夫という構え)ではなく、強固な「信頼」(何があっても大丈夫という構え)を。

 

いま、有難い巡り合わせで、そんなことについて改めて考えさせてもらえている。

 

ところで、載せたかったのは母親が手作りして、ぼくにくれた写真立て。リバティの生地を使った、ぼくらしい渋めの写真立てだ。ありがとう。フィルムで撮影した思い入れのある2枚を入れた。去年惜しくも15歳老衰で逝ってしまった愛犬ロジャーと、旅先のモロッコで撮影したホテルの一角。どちらも、その光が好きだ。

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