『15時17分、パリ行き』感想

 

つまらない映画だなと感じた。

ということがイーストウッドの術中にハマったという事なのかもしれない。。

 

と気付かされたのはこの映画に関する記事や裏側を知ってからのことなのですが。

 

映画を見るとき...

みなさんは映画見るときに事前に監督や出演者を見てから行きますか?

好きな役者や監督の時は僕も事前にチェックして行きますが、基本的に頭を働かせたいとき、なんというか美術館に行く時と同じ感覚の気分のときはあんまり内容を先に知りたくないので全くチェックしないんですよね。

だって半端な知識ある状態で感じる感覚より、頭をタブララサにして感じる感覚の方がより現在の自分に向き合えている感じしませんか?

 

なので映画の上映スケジュールだけ確認してタイトルを見て、よし、これにしよう。とまあパパッと決まるんです。

 

というわけで今回は『The 15:17 to Paris』を見てまいりました。

(洋画は基本的に原題も知っておくといいかもです。邦題にする時の意図とか分かったり、映画を見た後に、え、この邦題ちょっとセンスないなとか勝手に思うことができます。今回はそのままなのであまり気にすることはありませんね。)

 

基本情報

監督:クリント・イーストウッド

出演:スペンサー・ストーン / アンソニー・サドラー / アレック・スカトロス

 

 

この映画の秘密

この作品がかなりの実験作であることは後で知った身分です。

なのでまだ見ていない人にとっていい情報になるかはちょっと怪しいです。

実はこの3人、素人です。

この映画、実際に2015年にあったテロ襲撃を救ったヒーローの実話に基づいているのですが、この3人の男性、本物のヒーローたちなのです。笑

普通ノンフィクションの作品は実話を元に役者を使って忠実に表現しますよね。

しかしイーストウッドは役者を使わず実話そのものの表現に取り組んだのです。

 

この事実を知ってしまったら。。。

この映画がつまらないという僕のような感想をお持ちの方は、イーストウッドの狙い通りということになりますよね。

 

つまりイーストウッドは映画作品、映像作品としてエモーショナルなものを芸術化したのではなく、この事件をいかに映画という枠組みから疎外させようとしたか、これに尽きると思うんです。

決してリアルを捻じ曲げてはいけない。

全世界にこの勇気を伝えたい。

その一心で作品にする。

自分の味、スタイルを一切無にする。

これ、一番難しいことなんではないでしょうか。

 

創作物には基本的にその人の価値観やmoodが現れますよね。

ゲーリーやザハハディドの建築が一目瞭然なのと同じで、タランティーノの作品が気持ち悪いのもそれと同じです。

この映画、イーストウッドが作ったという事実、絶対に後に知るべきです。

イーストウッドという先入観の元にこの映画を見ることはおすすめしません。

もし知ってしまったとしても、映画の直前は好きな女の子のことでも考えて監督のことは一切忘れてください。

もうそこにはイーストウッドはいません。

 

これこそがこの監督の狙いなので。

 

 実際映画としてどうなの?

これは映画としての評価は低いでしょう。

しかしそれに勝るイーストウッドの長年の技術が詰まっているのではないでしょうか!

映像の勉強は全くの無知なので何を言ったところで感は否めませんが、ニュースのサイトや映画に詳しい人もイーストウッドに言及しているのできっとそういうことなんではないでしょうか。

 

ちなみに主演以外の電車の中の事件に実際に巻き込まれた人物たちも本物らしいです。

この映画のために呼び寄せたとかなんとか。

トラウマとかないんでしょうか。。

 

 

感想

ここからはこの作品を一つの映画として期待して鑑賞した僕の感想になります。

(監督のことも、出演者の話も全く知らなかったという意味です。)

 

また時系列ずらし系の映画か。。テロリストが駅でホームにむかうシーン、主演3人がオープンカーに乗って楽しそうに旅行しているシーン、そしたらいきなり回想に入って小学校の思い出シーン。

ダンケルクで素晴らしい伏線回収映画を堪能していた僕はノーランとは違うところをこの時点で期待してしまった。それがいけなかったのかも。。

 

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小学校でこの3人は出会うのですね。

しかも3人ともいじめられっ子。しかもスペンサーとアレクに関しては普段の生活を母親二人としているというところに特徴があります。彼らが通っているのはパブリックスクールではなくキリスト教を重んじる学校です。

なのでシングルマザー家庭の家に対し、あまりいい対応をしません。

こういう日本ではなかなかないことを見れるのは多少なりとも知識にはなるのでいいですね。

 

3人はこの頃からサバゲーにハマっていて、後に軍人となる伏線になっています。

(アンソニーは民間人のままみたいです。公立校に行くんだと言ってからサバゲーもやらなくなったのでしょう。)

 

小学校のシーンは彼らの背景に入り込ませる、どこにでもいるごく普通の人間であるという意思でしょうね。

まあこれはこの映画を通じて監督が大事にしたところで、本当にごく普通の人間であることを親近感持って見る側に与えることを重視していると思います。

結果的に誰だって悪事に立ち向かえるんだという終わり方ですしね。

 

小学校のシーンが終わるとそれぞれの成長過程のシーンになります。

アレックは数字を扱う勉強。をしているかに見えて特に努力シーンはなかったけど笑

スペンサーは今まで何事もやり切ったことがなかったことをアンソニーに笑われ、心決めパラレスキューなるものを目指し太った体を全力で絞ります。

パラレスキューにはなれなかったもののSEREに所属し、臨機応変に物事にぶつかって行く姿が描かれています。

印象に残ったのはスペンサーの頑張るシーンのBGMが

これでしたね!

いい選曲ですね〜

www.youtube.com

 

しばらくたってみんなが落ち着いたところでヨーロッパ旅行に行く場面になります。

本当になんの変哲も無い旅行でこれがまたつまらない笑

まあパッラーディオの建築を見れたり、コロッセオを見れたりと建築好きには悪く無いかも?笑

 

ここで印象に残ったのはヒトラーの自決の場所に関することでガイド(ドイツ人)とスペンサー、アンソニー(アメリカ人)が軽い言い合いをするところかなー。

ガイドはここがソ連に攻められヒトラーが自決したところだ。

というのに対し

アンソニーたちはアメリカが攻めて違う場所で死んだと主張。

しかしガイドはアメリカでは間違った教育をしている。なんでもアメリカが鎮圧したと思うな。と一言。流石にこれで喧嘩にはなりませんでしたが、歴史がねじ曲がることは往々としてあるものだと感じましたね。

もしかしたら日本も自分たちに都合の良いように歴史を変えているかもしれません笑

 

こういうところが妙にリアルに描かれているのは楽しかったですよ。

 

 

旅行もいい感じに進み、スペンサーがアンソニーに語り始めます。

「僕らは何かに引っ張られて生きているんだ。何か見えない大きな力に。」

みたいな感じで。妙に哲学じみていてつい最近僕が読んだ國分さんの『暇と退屈の倫理学』での奴隷になっているみたいなところと共通点を少し感じました。。

 

人は退屈が嫌で自分から奴隷になって頑張るという主張。たとえば仕事がつまらないから資格の勉強をする。とか。これって自分が頑張っているから自分の気持ちも悪くは無いし、周りからも頑張っているねという風に見られる。

でも退屈の第二形式を楽しんでいるわけでは無い。。

この辺の話は読んでない人には伝わらないのでこの辺で。。

 

その何かに引っ張られて結局オランダからパリに電車でむかうことにした3人。

そこでテロリストと遭遇するわけですね。

見事鎮圧し、銃で打たれた人を救急医療で救い、今までやってきたことが決してむだではなかったということがやっとここでわかります。

小学校、軍隊でやってきたことがここまで繋がっているのか。

という解釈になるでしょう。

 

まとめ

だからイーストウッドは過去のシーンを描くことにしたんでしょうね。

人生の伏線。笑

 

もし自分がこの立場だったらってみんな考えると思うけど、そう簡単にできることでは無いことは誰でも感じますよね。

だからテロリストを制圧できなくても、何かの危機に対し、全力で勇気を持ってぶち当たって行くべきだという明確なメッセージがこの映画にあるのです。

 

恐るべしイーストウッド。。

 

これはつまらない映画ではなかった。

芸術を超えた映画なのかもしれない。

また映画が好きになりました!!