これは2018年6月に投稿した記事に対し著者が編集して再投稿したものになります。一度お目にかかってくださった方に新しい内容の提供ができず、大変不甲斐ない気持ちで沢山ですが、少しでもこの記事の主題であります「三岸アトリエ」に貢献できることはないかと思惟した末の結論でございます。
なぜ再投稿するに至ったか、その理由や背景を以下に追記したいと思います。
改めまして、東京工業大学院修士2年の櫻井翔太と申します。
昨日2019年10月2日のことでした。バウハウスの建築家チームが製作した『Two Houses』という、文字通り「二つの家」に纏わるショートフィルムが公開されました。その二つの家とは〈三岸アトリエ(1934)〉と〈山口文象自邸(1940)〉のことを指します。なぜ設計者が異なる家を同時に扱うのか、それは設計者の生い立ちに共通点があるからで、1930年代近代化の真っ只中、山脇巌と山口文象という二人の日本人は、当時最先端で現代に多大な影響を与えているバウハウスに留学をしていました。
建築系の方だと学部の授業で必ず習うので知らない人はいないと思いますが、100年も前の話なので古く感じる人も多いようで、現在継続して学校が残っていることすら自分も去年までは知りませんでした。たまたま一つ上の先輩が留学していたことで知った程度です。
勿論教育制度のようなものは当時とは変化していますが、椅子や照明を初めとした家具から、授業課題での生徒たちの作品など、現代において価値が全く落ちずむしろ上がるようなマスターピースの数々は多大な影響を与え続けていると感じております。個人的にはマリアンヌ・ブラントの設計したデスクランプ(9万円)かマルセル・ブロイヤーの設計したデスクランプ(25万円)が欲しいと思っております(笑)
そのバウハウスで生粋の機能主義の影響を受けた彼らは、日本に帰国後すぐにそのスピリットを受け継いだ建築を残すこととなります。受け継いだからといってモダニズムを全面に主張するのではなく、日本建築にも造詣の深い二人だからこそそれらを上手く設計に取り入れることで、日本という国に馴染み多くの人々に愛される建物を作ることができたのだと思います。どの部分が東と西の混在かは、後ほど僕が勝手に三岸アトリエの分析をしているのでご笑覧下さい。
前置きが長くなりましたね。しかしながら、もう少しばかり書いておきたいことがあるのでお付き合いいただければと思います。撮影に立ち会い、この目で作品を見た僕はフィルムに対する感想を述べるべきだと思うのです。表現方法は如何様にしろ、人様の作ったものに何も感じないことなどあってはいけません。勿論興味の対象を絞ることは想定されますが。。
断片を切り取り繋ぐスタイルの作品だったので内容を正確に記憶していない可能性がありますが、どうかご勘弁ください。
追記:『Two Houses』の感想
人々が二つの行為を同時に行うようになった時代を切り取ることから映像は始まりました。「歩き」ながら、指で小さな「画面を操作」する。スタビライザーを持ちいず視点がブレると共に、カメラも若干下に向けられることで「あなたも同じことをしていますよ」と言わんばかりのカット。駅で流れる「歩きスマホ禁止」の案内放送をリアルにマイクに収めたそのカットはまさに喧騒な現代日本を正確に切り取る鋭い視点だったように思います。騒がしい様子から一転、高層ビルが立ち並ぶ閑静な住宅街が画面に映し出されます。ここから、建物のような静止物を撮影する際にはほぼ全てが定点撮影だったと思います。
それぞれの住宅を管理・運営していらっしゃる方々の思いの篭った言霊を拾った音源と、美しい住宅の映像が入り混じり、時間が過ぎていきました。
公共交通機関であるバスや電車に乗り、住宅に向かいます。運転手が挨拶する際に手をあげる仕草や道路に面したビルディング。ガラスに映り込んだ典型的な日本の景色や人々が交錯する様子。多忙に消去された日常を思い出させてくれるトリミングには豊かな感性が感じられました。住宅の内外観、そしてそこで活動する人々だけでなく、敷地から少し離れた場所から住宅を見たり、都市を見る視点こそ、「二つの家」だけに起きている現象が、決して特異的な二つではなく、日本各地の住宅が同じ問題を抱えていることを自覚している作者の意図を感じ取ることができました。
それぞれの住宅に人々が集まる機会がこの映画のために設けられました。山口邸ではコンサートを行う様子が、三岸邸では座談会を催した様子が映し出されました。そこに関わる人々が思い思いに言葉を連ね、これからのモダニズム建築の保存活用の議論をする。現代社会においては忘れ去られた、本来住宅が持つパブリックな力を教えてくれるようでした。ある家族のために設計された建物が、多くの人に知られ、愛され、使われながら保存されていく。きっとバウハウスの貴公子二人も喜んでいることでしょう。いつかは自分も設計する身として、想いを込めて表現した建物が人々に愛されるためには何をすればいいのだろうと、ふと思ったり。。決して言葉で建築を語るなんてことはしたくありません。しかしそれは作る際の話。建物を保存する際には言葉が必要です。維持管理のお金を捻出することなんてできないので、言葉で、学生の自分でもできることを精一杯やりたいなって。。
建物保存問題はとても制約が多く、人々の意見が一致しないことも多いです。前川國男設計の世田谷区役所、長谷川逸子設計の緑ヶ丘の住宅、どんどんいい建物がなくなっている気がします。
それは建築に対する知識の不足は勿論、審美眼を備えた人間が減少していることに大きな原因があるのではないかと思います。知らない世界はたくさんあるし、生きている間に何もかもを網羅的に把握することはできないですが、せっかくなら物化された人間の思想の多種多様なアラワレを知る努力はしていきべきと思います。
さて映画から少し話が逸れましたが、兎にも角にも素晴らしい映像作品だったと思います。トッドヘインズ監督が50年代のアメリカを表現するフィルターの素晴らしさとは違う、現実を投影する、これからの未来に何か訴えるものを持った、そういう映画だったと思います。
経緯
ということで、長らくお待たせいたしました。
僕が2018年6月に授業の課題で取り組んだレポートをどうぞご笑覧ください。
授業、というのは「建築保存設計特論」で山崎鯛介先生が担当の授業でした。
「歴史的建造物についてA1のボードにまとめ発表する」という課題が与えられた自分は実際に建築を見学して、自分なりにその建物を理解をした上で発表しようと思いました。それがこの建築との出会いでした。適当に検索をかけてパソコンとにらめっこしている際に発見したのです。発見、つまりこの建築に関すること、存在・設計者・施主何もかも無知の状態だったということです。授業に感謝しています(笑) 最初に貼った画像をインターネットで発見し、バウハウスのデッサウ校舎を思わずにはいられませんでした。そしてこれが日本にあると。しかもできた年は1934年となると、もうこれは行くしかない。と勢い半分で見学希望のメールをしていました。
正直モダニズム、白い箱、沈黙系の建築は好みではないのですが、建築には顕在していない建築家のピュアな空間を思い描いた思想が垣間見えた時の面白さをファンズワース邸の外部に追い出された柱を支える小梁についてその不合理さを友人と議論した直後のことで、興味の対象が近いことも選んだ理由の一つではあります。
モダニズムと呼ばれる建築は白い箱を目指しているので、本来ならしないであろう不合理な構法や構造を使うんですよね。それは工事が終わると見えなくなってしまうけれど(それがカッコいい!苦労が見えなくなるところが。まさに能ある鷹は爪を隠す。)、竣工中の写真や解体の時にわかる訳ですが、そこを見えた時が楽しいと思います。
以下、各項目に分けて順を追って書いていくので、読みたいところだけ目次から飛んで覗いてみてください。
建築概要
所在地 :東京都中野区
用途 :アトリエ(現在はレンタルスペース / スタジオ)
運営者 :アトカル
設計者 :山脇巌
施工会社:永田建築事務所
延床面積:38.414坪
構造 :木骨造
竣工年 :1934年(昭和9年)
設計者
山脇巌。この建築を知るまで存在すら知りませんでした。授業でも習わなかったし、歴史研に所属していた学部4年のゼミでも一切出てきませんでした。
彼は妻の道子と二人でバウハウスに留学。これが1930年の出来事。ナチスによるバウハウス閉館により1932年、わずか2年後に帰国しています。建築家でありながら、写真家でもあったようでそのコラージュ作品はバウハウス関連の洋書本でよく見かけます。
帰国後すぐに木造でこの建築設計できるものなのかと、、すごいです。向こうで国際様式を見ているとしても自分のものとしてアウトプットできるまでの期間が短かいことに驚きました。しかも30年代の日本といえば、日比谷公会堂、銀座ライオン、国会議事堂などのアール・デコ建築や洋風の建物が人気を博していたはず。なぜ施主はこの建築を依頼したのか。。気になります。
施主
お施主さんは三岸好太郎。戦前のモダニズムを代表する洋画家で、最終的にはシュルレアリスムに行き着いたようです。『蝶と貝殻』シリーズが晩年の作品。若くして亡くなったのはとても残念ですね、三岸アトリエも完成を見ずに亡くなってしまったようです。
設計意図
当時の写真からの考察をしてみようと思います。
当時のアトリエの写真を使って、この建築が形態になるまでの経緯を探ってみようと思います。螺旋階段、家具、大きな開口部などなど、、
三岸の依頼時の言葉が住宅雑誌に記してあったのでここにも書いておきたいと思います。
「北は一面の壁で、三方全部を開け放った硝子建築」
「黒と白ばかりの部屋、そして色々な絵をかける壁のあるー色のある絵によって尚引き立って来る色のある部屋(色と明暗に関する鋭い感覚は、氏の最近の作品がはっきり物語っている。細かいペンを用いたデッサンやガッシュに現れた黒と白の使い分け、あるいは紫、赤の特殊な色の使い分け等)ー書室の壁はグレイがいい、今までの書室は白の系統が多いが、灰色の中で素晴らしい制作がしてみたい」
「書室には、くるくる天井にまで延びてゆくスパイラル(渦巻き)の銀色の階段ーここから絵を見下ろすのも面白い。」
「冬は東南の暖かい陽を浴びて、光の中で夢のような暖かい製作をする。」
「アトリエの前にはキラキラ陽に光る池を睡蓮の花がぽっかり浮いた池を、そして水面で曲折した陽の光が白いアトリエの天井でくねくねと踊っている」
螺旋階段
三岸好太郎は晩年『蝶と貝殻』という作品を残していますが、ここに描かれている渦巻きの貝殻はヘーゲルの思想(スパイラル状の物事の捉え方)からきているそうです。「物事はスパイラル状に上昇し、決して同じ場所には戻らず進化して行く」というまさに形態的に表すと螺旋型の捉え方は三岸の生き方そのものだったようなんですね。つまりこのアトリエで一番ヒエラルキーが高いのはこの螺旋階段であり、それが目立つようにこの空間があったようにも思えてきます。ここに来る人は明らかに視線をここに向けるであろうし、現に自分も目を向けていたと思います。設計者の意図ではなく、施主の意図だったんですね。
大空間
螺旋階段を強調するためには目立たない消える空間が必要なわけです。これを設計できた建築家は当時珍しかったのではないでしょうか。設計者と施主の価値観が一致したためいいものが出来上がったのでしょうね。この大空間、平面は18尺かける18尺。つまり九間なのです。九間とは伝統的な日本建築の寺社仏閣武家屋敷等によく見られる大きさです。堀口捨己の弟子でもある神代雄一郎は『九間論』という本で、九間は日本人にとって心地の良いスケールであると言っています。つまり古代から近世までの歴史を貫いて、人が集う空間の理想型として三間四方の空間「九間」が見いだされることを追跡し、そこに日本的空間の核心を抽出していると見ることができます。(青井先生のお言葉をお借りいたしました。ところで10+1終了残念ですね。)九間と山脇との関連は僕の勝手な推測なので流して頂くか、議論しましょう(笑) しかしながら日本建築の九間とは違う点もあります。それは天井高です。実際にメジャーを下ろして測ったところ4500mmでした。日本建築は1820mmから2275mmくらいでしょうからかなり空間認識としては変わってきますよね。
大きな開口部
右手に見える開口部は何故か南を向いており、強い日差しをもろに浴びます。アトリエとして使うなら長時間そこにいることを想定して落ち着く場所を作るべきだと思いますよね。でもこれにも施主の強い意向が存在したようです。後ほど詳しく写真を載せてアプローチとの関係を示しながら説明します。
家具
手前に見えるのはマルトスタムのパイプ椅子のデザインのものに激似です。またはミースのMRチェアに似ていたり。キャンティレバー構造のパイプ椅子はその構法的に最大限曲げられる角度と荷重に耐えるための構造計算が必要なので、影響を受けて異国の地ですぐに作れるとは思いませんが、よく作られています。オーナーさんの話によると山脇が持って帰ってきた家具を見せて、日本の職人に似せて作らせたそうです。奥の椅子もミースのバルセロナチェアのX字の脚に構造が似ているような感じがします。
奥に小さな空間があり、そこを応接間として使っていたようですが、現在は補強のため壁が入っていて、当時ほどの開放感は失われています。現在でも広いと感じるくらいなので昔はもっと広かったんじゃないかと推測します。
床は米松縁板張りで見事な光沢が写真から読み取ることができます。構造的に強いことはもちろん、螺旋階段、窓からの光などを反射させ、より空間の質を高めていた要素と言えそうです。木の経年変化と金属のインダストリアルな雰囲気の相性の良さが素晴らしいですね。
ここからは実際にこの建築を見て感じたことをまとめていきたいと思います。
空間構成
撮影した場所は少しずれていますが(ごめんなさい笑)、昔の面影はほとんどありません。正直柱の通り芯をずらすことで、角がガラスになっていることに惹かれていたのでショックでした(笑) レンガの煙突があるし、人を引き込むエントランスはコンクリートの塊になっているし。(これは三岸好太郎の妻、三岸節子が作らせたのかもしれません。)周囲に建物も増えたので目隠しのための大きな木も3本植えてありました。
当時の姿を知っているから残念と思いながらも、現在の姿の重厚な感じは嫌いではないですね。楣が細い柱に載っているような表現にも見えます。構造と意匠の関係は近代建築家が注力した部分ですよね。当時の写真の前庭にはリュウゼツラン科の植物が植えられていたりして、遠藤新やライトを思わせます。
玄関部分もだいぶ変わっていました。2011年の東北大震災で硝子部分が崩れてしまったそうです。2013年に修理して現在に至っています。通りに面した小窓はコンクリートで塞がれ、隣家に面した格子の開口は波板で補強してありました。屋根も修理されています。現在は玄関としての機能は全くなく、内側も仕上げ材が剥がれています。玄関にこれだけ大きな開口部があると、心地良さそうです。動線方向を雁行させることで自分も実践してみたいです。
三岸節子が設計を頼んだのであろう前庭部分に建った暖炉のある部屋が現在のエントランス。焦げ茶色の梁が飛んでいたり、ハーフティンバー的な雰囲気のお部屋でした。アンティークの家具が置いてありここはかなり洋風です。
アトリエを右手に見ながら、赤い扉へ向かいます。これが三岸の思っていたアプローチなんですね。というのも先ほど大きな開口部のところではぐらかしたアプローチとの関係をここで書きます。通りに面した入り口を作らず、東から西にアプローチをわざわざ長く設計したのは設計が下手とかではありません。このアトリエを見せることこそが目的だったのです。しかも大きな窓があるということは実の透明性を介して螺旋階段が外からも見えるんです。中からも象徴的な螺旋は外からも注目を浴びる存在に仕上がったわけです。。素晴らしい象徴主義。。
ちなみに外に緑色の柱がありますね。当時の写真からは伺えない(モダニズムの思想的にもあの位置には柱は見せない)ので補強のためにつけたのでしょう。
扉の色にも理由があります。三岸の晩年の作品の表紙の色です。比べて写真を撮って見ました。節子によると好太郎はコルビュジェやオザンファンからも影響を受けているらしく、扉だけ色を目立てせたのはそこに源流があるんでしょうか。ちなみに、コルビュジェの設計したアトリエ・オザンファンはこちらです。
似ていますね。
当時の屋根形状を示す写真はありませんが、現在は寄棟屋根がかかってます。おそらく道から撮った写真から推測すると陸屋根か、片流れで地面レベルから屋根が見えない方法をとっていたと思われます。
それでは実際にアトリエに入って行きましょう。
と、その前に平面図を見ておきます。
平面図
竣工当時の平面図に藤森照信さんが部屋名を加筆したものです。
TOTO通信 こちらに掲載されています。
応接間からアクセスします。
床も、ヒーターを入れるための鉄平石でできた作り付け家具もそのままです。メルヘンチックな感じになりそうでなってない。割とギリギリなラインかもしれません。
左が1934年、右が2018年。
比較するとトップライト、はしご、通気口、ライト、窓の形状などに変化を捉えることができます。左の写真の右下、細長い通風口があるの見えますかね。平面図を見ると北側に室はないということがわかりますが、現在はスライドドアがあるのが写真でわかるように奥に風呂、便所、2階への階段があります。
アトリエ
それでは各方角からアトリエの写真をどうぞ。
登ると2階の和室に。
家具は当時のままだそう。あとで少し細かく見ます。
奥には階段、右手に風呂、左手には便所。
上の開いている扉は額縁や絵を保管する場所。当時ははしごからアクセスしていたそうだけど、いまは2階から行けるようになっています。
明るい!本当に明るい。心地よいです。
結構劣化しています。
階段の途中から。いろんなところで撮影できそうです。
2階の和室から。下で資料を見ているのが山本さん。お世話になりました。
三岸はここから絵を眺めることを考えていたんですね。
保管庫から。この広さ伝わりますかね。
なんの脈略もなくヤコブセンの椅子が置いてあります。
誰の作品か忘れてしまいましたが、その方の作品が飾られています。
床材には本当は松を使いたかったようですが、予算がなくラーチ合板を採用。木目選びが上手で、綺麗に敷かれていました。
玄関
当時のインターホン。
左が外から、右が中から。壁は結構厚いから雨は入らないのかな。この照明の設置の仕方、未だにここ以外で見たことがありません。
当時の帽子掛けと外套掛け。壁の仕上げはボロボロになってしまっています。まるで自分の家の珪藻土のようです笑 亀裂もありますし、地震の影響は大きそうです。
鉄平石。黒は三岸が指定していた色ですね。
白色タイルも見えます。この状況ですから、有用性はないですね。この部分に関しては是非修復していただきたいですね。。
アトリエから2階へ
扉の奥に入ります。
お風呂。もうだいぶガタがきてました。
アトリエのお風呂側の壁。コンクリートブロック。
なぜか新聞紙。。。
サンルーム
2階へ向かいます。
そういえば、色使いが上手だと僕は感じました。いやらしい感じがない。アトリエと違ってモダニズムではないことを示すかのような構成。増築部分とすぐにわかります。白色と茶色のコントラストが綺麗に効いています。
登りきったところから撮った写真です。右のブリーズソレイユ自体は格子グリッド。しかし奥の半透明のガラスは3×6板。真ん中の冊子の切り替え部分に同じ色の木で補強していたり。全く目立たないから意匠的にも構造的にも合理的な方法だと思います。
保管庫から出たところから撮った一枚。階段を上がるとすぐにサンルームがあります。どこにもサンルームという表記はないけれど、和室とレベル差があることや、北側の落ち着いた光を入れる水平連続窓をみると、恐らく椅子を置いてお茶でも楽しんだのかななんて思ったりします。スタジオとして利用する人はここが結構光がいい感じに入る!と言っているそうです。
左手に和室。奥が保管庫。
階段のディテール。勾配はとても急です。コペンハーゲンリブは雰囲気でるのでいいですよね。
よく見ると、床厚とても薄いですね。。
和室
南側。左側の柱も当時はもっと細かったのではないかと思います。和室だけど開口部は近代建築そのもの。ここが木の建具とかならより和風に見えますが、外観の見えを大事にしているので、アルミサッシを採用しているのだと思います。(改修している可能性の方が大きいかもしれません。)
6畳間。壁が白い仕上げなのでとても広く感じます。奥にはサンルーム。
テラス
外にはテラス。
煙突。
お庭
テラスから下のイングリッシュガーデン的なお庭を見ます。毎週ここでお茶を飲みながら地域の人で集まって色々話すそうです。歴史的建築の中でそういうコミュニティが形成されているのはとてもいいことですよね。ここのオーナーさん、そういうのとても上手です!
隣のアパートメント。
ディテール集
天井の仕上げ材は地震で剥がれてしまったそう。中からい草が垂れています!!これは日本の伝統的な工法だそうで、上から固定するために吊る材料だそうです。モダニズムに隠れし日本の技。これ見れるの楽しいですね。
天井が剥がれていたこともあり、iPhoneを突っ込むことができました。謎の小屋組です。もともとの小屋組に屋根改造の小屋組が混在しているのだろうけど、手前の入り組んでいる3つの材とかとても謎です。垂木も二重?野地板が直接張られていないんです。しかも野地板は普通横材を何枚も載せるわけですが、どうも一枚板に見える。ただの材料不足なのでしょうか。。
不整形材ばかり。
まず木造で大空間を作ろうとした不合理な作為がこの小屋組に繋がっているのでしょうか。垂木も太すぎです。
堀金物。新橋にあるアール・デコ建築のお店ですね。
アングル材を使用した螺旋階段。使用していない穴は施工時に間違えたそうです。施工は中で行ったらしいです。
絵をかけるための棒。はしごがないと掛けれませんね。。
当時の机。またいいものを見ることができました。
どこかライト的な雰囲気を醸し出しているんですよね。。
登録有形文化財として
2014年に登録有形文化財に登録され、2017年にはdocomomoに登録されています。現在、日本に現存する木造モダニズム建築は2つで、土浦亀城邸と三岸アトリエのみ。竣工年でいうと1935年と1934年。実はこの三岸アトリエの方が先なんですね。
しかし文化財に登録されたからと言ってお金の援助が出るわけではなく、スタジオに貸し出したりカフェの稼ぎで維持費に充てているそうです。
リンクを貼っておくので是非スタジオ、写真撮影等で利用してください!
完全に修復するには2000万。
僕個人としては当時の状態に是非復原してほしい。しかし当時の面影がなくなってもそれはただの新築になってしまうのでいかがと思いながら。保存と利用の問題って難しいです本当に。
最後にオーナーの山本さん。この度は本当にお世話になりました。楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
何かの弾みにこのブログに行き着いてしまった方で、もしファッション関係、写真関係の方がいらっしゃいましたら、是非とも三岸アトリエ、ご贔屓いただければと思います。血筋もバウハウスも何も関係していない僕ですが、一建築ファンとして、良いものを残すべく発信しています。よろしくお願いいたします。