早稲田建築・公開講評会 [設計編]

第二弾です。

早稲田大学の建築系の卒業設計について書いていきます。

 

前書いた論文編は下のリンクからご覧ください。

 

sakush0mylife.hatenablog.com

 

設計編はね、最初焦ったって話からします。

ポエマーが登場したんですよ。笑

最初にそんな感じのが登場してしまうもんなんでびっくりして、え、まさか早稲田やばいんじゃねとか思いましたw

ちなみにその案はマジで理解不能でした。

そのグループでメモったのは詩人建築家の立原道造という人物のみ。この人は24歳で急逝している著作家です。まだこの人については何も知らないので今後何か読んで感想でも書こうかと思ってますが。

 

建築と言語は繋がっていると前回の記事にも書きましたがあまりにも建築<言語というか詩語だったのでこちらからしたら??って感じ。

 

面白いと思った案は正直明治大学よりもなく設計が最後の最後まで空間化されているモノも少なかったので詳しく言語化するのは2つにします。

 

①生と死の循環を都市に提案する

②東京に溢れる地下空間を地上と明確につなげる

 

この2つでいきましょ。

①は2案が似ているコンセプトと捉えたので一つにまとめてしまいました。

というか

早稲田大学って卒業設計が3人1組なんですね。

会場に行くまで何も知りませんでした。笑

これによる利点と欠点はこうです。構造、環境分野ともに実施レベルまで突き詰めるので勉強になる。が、中途半端で終わる。

 

①の案はまとめると貝塚の設計です。面白いと感じた点は時間の流れを扱っているところですかね。どういう案かというと

 

元来、死は完全な終わりではなく、物質として新しい生の糧となり巡っていくはずが、都市ではそれを容易に忘れかけてしまう。今や死は日常から隔てられ、死にまつわる場の不足や管理が問題となっている。敷地は東京湾多摩川河口。人工化の裏で本来海と大地の大きな営みがある海際に、散骨場のある親水公園を計画する。私たちが命や自然の大きな循環の中で生きていることを、ふと想起できるきっかけの場として東京湾が巡り始める。

 

という感じです。

これは配られていた資料から抜粋しました。

実際この大きな循環で生きていることを認識する必要性についてはよくわかりませんが。普段忘れかけていることを思い出して、とか、子供の気持ちをもっと考えようという案の意味が理解できないのは僕だけでしょうか。今の自分からしたらどんなに提案が他のひとと違うことをやっていてもそれが人間の身体にまで落とし込めていないとダメだと感じる一面があります。大きな世界に生きているのは誰しもが自覚可能で自明であるし、それを建築を使ってまで表現する意味があるのかと感じるのです。子供視点で考えるということは敷地よりもつまりハード面で考えるよりもソフト面、つまり精神的な影響、それから原風景の方にいい印象を残すことに重視するならばまだしもそこに空間的な提案をしたところで子供が喜ぶとも思いません。この国が作り上げてきたものは素晴らしいものであるし、過去にすがりたくはないけど革命まで起こす必要のないものかと。結局この案は一つに場所で起こった都市がいろんなところに派生していくみたいな一般化で終わっていましたが、さすがに今の時代ではもう一般化では社会は解決できないでしょう。

 

この案で言葉的に面白いと感じたのは物理的に有機的に建築か、土地が拡大していくというワードに対してでした。ここもうちょいちゃんと聞いていればよかった。メモに書いていない笑 時の流れを感じて、建築更新を思考していくみたいな感じかなと思ったけどそれは違う案だ。あとでそっちの追記にしたいと思います。

 

②地下と地上をつなげるやつ。これは単純に興味を持ちました。実体験から恐らくみなさん東京の地下空間の乏しさと不明確さを感じたことがあると思います。自分も同じで地下空間にはいつも困らされています。東京駅の近くは地下と地上の間に半屋外空間みたいなところを作り、カフェやレストランを置いている場所もありますが、あれはいいなと感じたことがあります。

実際東京には古い大正時代の建物から現代的な建物まで様々なファサードを持った建築があふれています。混在した今の時代でそれらを繋ぐのはやはり地下空間のようです。オフィスの下には安いラーメン屋、安いコーヒーが飲める喫茶店などが必要になってきますよね。

 

このグループが扱っていた範囲の都市はある程度的が絞られていて、設計するには丁度いいスケールになっていたのではないでしょうか。始めに断面図を示してくれたのもすごいよかった。もっと細かく寸法を聞いてみないけどパースの人間のサイズの感じもよく現れていたのはよかったかな。でももっとスケールをあげてその場でのアクティビティが描けないといけないのかな。アイレベルでも隣の人が画角一杯に収まるくらいの方がわかりやすいと思いました。

 

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記録用に自分のノートも載せておこうと思いますがとても人に見せるものではありませんのでスルーしてください。

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全体の総括として学部の卒計は大したことがなかったです。。

始めに書いたように中途半端な案に終わってしまう欠点が全てで、評価のしどころがない案も何点かありました。

それに比べ修士はレベル高いですねぇ。

ほぼ感動を覚えながら聞いていました。

特にこれといって書きたいこともないので書きませんが笑

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タイピングって疲れるんですよね。

普通に話していたい。

 

てな感じで明日は合格発表。

家庭教師の子が受かっているといいな。

 

ではお休みなさい。

早稲田建築・公開講評会 [論文編]

今日、実際には昨日2月26日は早稲田大学の建築学科の公開講評会に足を運びました。大学の偏差値としては自分の通う大学よりも高いところなので期待して聞きに行きました。というか大隈講堂で一般公開する規模がまずすごいですね。さすがマンモス校です。行程としては修士論文、学部設計、修士設計という流れで、自分は論文は午後の学部設計から見に行こうと12時くらいに会場入り。講堂のどこから入ればいいかわからず恥ずかしい思いを少ししましたがなんとか前の教授陣のすぐ後ろをゲット。いい位置で聞くことができました。自分が入った時にはまだ修士論文の枠が終わっていなかったので少し聞くことができました。その内容から書いていきたいと思います。

 

自分が聞いたのは3つで

 

①養蚕と民家の関係

②オノマトペは建築にどう影響を与えるか

③吉村順三の汎世界性について

 

でした。

 

①では養蚕業の盛んな群馬地域を中心としたリサーチを元に建築の使われ方を明らかにしようというもの。幾つか建築のあり方のタイポロジーをまとめ、どの地域、敷地の様子との関連を研究していました。他の産業と建築の関連を知ることは大切と感じ、熱心にメモを取るもまだ自分の能力不足、全然書き取れず。なんか英語のリスニングもこの前全くメモれなくてまた同じ失敗をしたと思うととても反省です。まず養蚕業には農書や養蚕書が存在しそれに基づいて生活に影響を与えるというか行われているようです。養蚕法を3つに分類し、この辺はすでに分化されているものなのかな、結果的に戦後の建物のあり方として総二階型と名付けられるタイプのものが多く使用されているようです。単純に二層構造になっていて、一層には作業場?養蚕場?があり、二層には住居やホテル、貸家などを置くケースが多いようでした。曖昧な表現で申し訳ないです。この二層部分の空間のストックの使われかたとしてはとても正しいというか、全うというか正当な感じがしました。この案の面白いと感じたところは平面で見た時に戦後の建築には北側に水回りが集まっていることや、屋根の形状操作の論理性などですかね。屋根の形状の決め方って知ってるようで知らないと内藤廣さんが本に書いてました。んあれは東大の授業をそのまま文字にしているだけなのかな。屋根って雨をいかに早く重力に従わせるかなんですよね。現代の建築ばかり見ていると陸屋根が多いですが、方形屋根、入母屋、切妻、寄棟の4つが最短なんだっけか確か。そう雨を効率良く流す屋根の形状って決まっているんですよね。確かその本にはスペインで内藤さんが聞いた話と書いてあったな。おそらく日本よりも地形の変化が著しいヨーロッパでは形状に関しては詳しくやるのでしょうか。日本でそれを教えてもらったことはまだないですね自分自身。まあ建築って教わるものではなく自分で学ぶものなのだと思いますが。話が逸れました。屋根の話は良く覚えていないのでまあここで終わっておきましょう。やはり論文は新しい発見の方に重点が置いてあるので発明がないところが残念ですね。分析で終わってしまったところが残念、なぜなら全国に広がる養蚕業の地域ごとの特徴や敷地に対しての建築のあり方にもう少し触れてくれたらなと思ったからです。

 

②が個人的にとても興味深かったです。

建築とオノマトペの関係。結論としてはひとの表現できない、はっきりとした言葉では言い表せない ”感じ” を空間化できるのではないかというもの。建築家の隈研吾さんや富田玲子さんが使っているらしく、それを踏まえ研究したものと思われます。この案の良かったところはリサーチがすごいのとそこから実際の表現できそうな示唆するようようなものだったところですね。まずリサーチ。宮沢賢治の作品を全て読み込み、オノマトペを抽出。全部で749種類ものオノマトペを取り出し、ランキングを出し、上位5位について考察。データは全部の統計を取っていたので相当な時間を要していることが一瞬でわかりました。その5位とは。しいん、よろよろ、ぐるぐる、ぐらぐら、とも一つなんですが、ノートの自分の字が読み取れず、、わかりません。しらーかな笑

このしいんというワードのみ音と空間のつながりを示すものとして一般化し説明していました。しいんというのはモノの音の表現でもあり、その場の空気を示すこともでき、自分の心の中で感じるものでもあります。それが人間全体で一般的に言えるかどうかがこの案の盲点ですが、それが形に表せることができるのではないかというところに面白みがあります。

これについて思ったこと。やはり建築と言語は本当に密接で切り離せないものなんだなという再認識ですかね。建築って突き詰めるとどうしても哲学的な説明が入ってしまうから言葉ってだいじだなぁて。芸術として建築作品を見てしまうと言葉なんていらなのではないかなど思いますが、実際建築家と芸術家は明確に違うし、明解な境界線など存在しないでしょう。村野藤吾さんなんかはほとんど言葉を残していないんですよね。それってすごいことだし、本物って感じがします。言い訳もできないし、形として表したことが村野さんの作品なんですよね。って彼のお孫さんの本に書いてありました。衒学的ではないのがかっこいい。スイスの建築家ピーターズントーなどもそういうひとでしょうか。あまり自分をカッコよく見せることもせず、ひとにいい評価を受けたいということも考えず、ただひたすらに人が幸せになれる空間作りに徹する。いつの間にか有名になっているみたいな。カッコよすぎ。言語は付随してくるものであってあくまでwithであることは忘れずにいたい。でも先に身につけるべきは言語であって、建築以外の知識、話の際に言語さえ使えればいいのです。と思ってますが、まず日本語の語彙力さえ未熟な自分がとても恥ずかしいです。

 

この論文に関する先生のコメントは日本語の感覚に収めてしまったのが残念ということ。海外の言語体系ではどのくらいのオノマトペが存在してどのような感覚なのかまで話を広げたらもっと面白くなるねって。虫の声を擬音語にすると右脳と左脳で使うところが違うみたいな研究もひと昔はあったようで、はっきりとした表現ができないムズムズさはどの時代もあるようです。さらにそのオノマトペを使う際には必ず文脈が存在し、それを無視することはだめだろうという指摘。これは間違いないですね、しいんというオノマトペから情景を浮かべるのではなく周りの状況、設定は必須です。宮沢賢治がオノマトペを多用した理由は彼の考えている情景を読者側に想像させるためではないかというのは友達の意見。その通りで本の一番の魅力は情景が読者の解釈によって異なるという点。だから細かい描写が事細かに書いてあるよりもオノマトペを多用している分の方が実体験に近く、読者側は知らず知らずと本の世界に迷い込む。まさにストレイシープです。太宰治のような衒学的な本も面白い人は面白いでしょうが、やはり小説の魅力は。という感じです。まあ話を世界に持って行ったら文化の次元に入り込むのでほぼ100%まとまらないと思います。なのでこの論文はあの完成度がちょうどいいのではないかなと感じました。文化の次元はなかなか越えることができないですからね。いくら海外にいようと世界中のひととうまくやっていけるわけはないのです。うまくいっている風なのです。だと考えてますがどうなんでしょうね。あの国のひとはみんな優しかったよ!と旅行から帰ってきていっちゃうんですよね。何がみんなだよ、テレビの視聴率よりも統計になってないわ。って感じです。嫌なかんじですね、僕笑

 

③です。

この論文で得たことはなにかと言いますと、京都に俵屋というふるーい高級旅館があるんですけど、その設計したひとが吉村順三であったという事実でしょうか笑

 

つい最近骨董屋のおばちゃんから聞いてしった俵屋。行きたいなと思っていたところ、まさかの設計者が吉村さんだとは思っていなかったです。行きたさ倍増。次の関西の目標は大山崎山荘、兵庫県立美術館、宝塚カトリック教会、そして俵屋ですね!!

 

ジャパニーズモダンの先駆者は王室側に認められず、日本の建築界を退き、彼の建築はロックフェラーの自邸に全て表現されているようですが検索してもヒットしないのでよくわかりません。

 

 

 

設計編はまた後日。

 

 

 

 

JIA 神奈川建築祭

正式名称ではないかもしれませんがご了承くださいね。。

あとでリンク貼っておきます。

っていってもこのイベント明日で終わりなんでもう遅いかもですが。。

 

横浜は馬車道駅のコンコースにて開催してる建築系のイベントに今日いってきました。

実は昨日もアルバイト先の事務所の模型搬入で行ったので2回目ですが、今日はシンポジウムがあったのでそれを聞きにいってきました。

 

神奈川県の大学7校の先生方が集まり、卒業設計の傾向を解説するというものでした。

来年というか今年、自分も4年生になるので参考になるかなと思い行きました。

まあ研究室の先生がそのトークセッションに参加しているという別の理由もありましたが。

 

まず各大学の先生が5分ほど自校の卒業設計の傾向について話し、そのあとに事務側が考えたお題に答え、対話していく形でした。

 

卒業設計の傾向の話しで、各大学のレベルもなんとなくわかるわけです。笑

というか明らかに明治、慶応、横国が頭一つ出ているものと思われますが。

 

さて感想。

傾向についてはどうでもいいというか関係ないので、あまり真剣には聞いていませんでしたが、社会的に考察して現代社会に訴える作品が多い。というのが主でしょうか。

傾向の話しで面白かったのが慶応の松川先生。

建築がどこまで計算可能なのか。計算可能なところがあるという事は不可能な部分もあるのではないかという自己への問いかけでした。

これは傾向とは少し話しがずれてしまうかもしれませんが、この計算というのは寸法の話しではなく、人の動きを含めた空間のあり方や、都市スケールで考えたときの活動など建築、建物のハードではなくそこで実際に起こるアクティビティにおいての話しであると自分は思いました。そこが面白いと感じた理由です。

 

東海大学の杉本先生の話しには頭がはてなになりました。これは話しが理解できなかったということではないです。都市、建築、インフラという言葉を明確に分離して、それを卒業設計の傾向としていた点にです。都市は建築やインフラ、人、様々なファクターから構成されていて、明確に範囲が決まっているわけではないはず。なのにそれを分けて考えていたのでどうなのかなと感じたのです。

 

工芸大学の八尾先生は学生の未来予想図についていこうと頑張っています。とかなんとか。笑そうになりますよね。先生側の頑張りは口に出しちゃダメでしょ。

 

とまあこんな感じでまず先生方の語彙力が明らかになるのです。

この時点で誰の話しに注意を向け、無視するかが決まるのです。

そんな事を考えているのは自分だけでしょうか。いやこれは多くの人がやっているでしょう。だって全部の話しを忠実に聞き取ってグラスプするには相当な労力が必要だし、インプットすらできなかったら意味ないので。聞く耳にもメリハリをつけるわけです。

 

さて本題です。事務側が考えたお題に答えていく感じで。

 

①美しい線を描くには。

②モノ派×コト派

③公共×個人

 

順々に行きましょうか。

①に対して先生たちの意見はこんな感じでした。というのを全部書くとまとまりなくなるので自分の意見と交えながら。

多くの人が最近の学生に対して不満を抱いているようですねこの課題には。要するに図面が読めない、書けないくせに模型だけできた風にしている。みたいな。

自分も気づいたのは割と最近ですが、建築ができる人って手書きで立体空間をすぐに表現できる人の事を指すと思うんです。立体の空間を頭でパッとイメージしてそれを2Dに起こす。これができる人はちゃんとトレーニングしたひとだけでしょう。自分も全然できないのでこれから頑張りますが。おそらくこの議題が出た理由の一つに空間のイメージまで描けているひとが少ないコトがあげられるでしょう。結構な数の模型やボードを見ましたが、思考の面を表現してもそれは設計とは言いません。しかしそういうひとが多いのです。このことについては②で詳しく述べたいと思います。

 

やはり先生がたはフリーハンドで表現を身につけるべきだという意見や、CADというソフトに頼ってしまっているからだという考えや、美しいの概念とはなんぞやみたいな事をいうひともいましたね。CADに頼っているのは悪い事ではなく、それを使いこなせば自ずと美しい表現、個性の表れになってくるのではないかと、これは松川先生。線の一本まで見ていくとコンピュータを使っているとみな同じ表現だけれども、郡になった時にその美しさに違いが出てくるという事ですね。それは課題をやる側の僕からしても感じる事で、フォトショップで人の添景を画像に合成する際、影をつけないひとがいるんですね。まず日々の視野が狭いのでしょうねそういう人は。僕自身はこれに気づきパース表現はトレースして自分のスタイルを確立しようとしているところであります。評価されるかは別としてですが。。

 

青井先生は考えた時間分、表現にも出てくる。と述べられていました。まさにその通りで建築を思考する時間と表現にかける時間は分けてはいけません。ボードをかっこよくしたいから案を途中で投げ出すなんて事はしてはならない事を示していたと思いますね。3年前期にゲストで来てくれた鹿島建設の人は思考する時間を多く取りなさいといっていました。ようやくこの意味の本質がわかった気がしました。遅いよね笑

 

この議題でも少し出てきたのが学生がヒューマンスケールに落とし込めていない点について。普段から身体スケールを体験しているならば、必ずそれがアウトプットされるのです。ヒューマンスケールで考える事は対して難しい事ではないです。しかし忘れてしまう人が多いです。これは自分自身も体験した事があります。コンテクストのない敷地で設計した時です。大きな敷地に美術館を建てましょう。という課題。あまり深くはここでは言いませんが、とにかく建ぺい率から考えてしまっていたのです。中庭をこれくらいとれればいいだろうと。しかし自分の作ってみた模型を改めてエスキスしてもらうとかなりのオーバースケールなのです。昔の様式建築でもないのに、身体にまで落とし込めていなかったのです。用途のみ与えられ、空間の設計は自由、機能も自由となったとき、必要なものがわからなくなってしまったのです。しかしエスキスを重ねるたびにそれがわかってきて最終的には構造以外解決しました。

 

これをきっかけとし、身体的空間と都市的空間を常に両方向から考えていなければならない事を学びます。卒業設計ではそこまでしないといけないのです。なので決める都市スケールの大きさがキーポイントになる事は間違いなさそうです。

 

ということでお次に参りましょう。

 

②モノ派かコト派か。これはハードかソフトかでも代弁できるかと思いますが、要するに思考回路における面白さを考えた案か、形、デザイン、見た目をその意味となすモノに対する回答か。最近の傾向としてはまたモノ派に戻ってきているようですが、一時は社会貢献の思考回路を楽しむ面が多く見られたようです。いやーこれは両方解決するべきでしょう。というかむしろ建築学科ならモノ派でないといけないんじゃないか。だって利用するのは人間以外の何者でもないんだから。最終的にヒューマンスケールに落とし込むのは当たり前でしょう。だいたい大きなスケールの問題を一気に解決するわけなく、住宅一つの設計で1人の人すら幸せにできるかもわからないのに社会問題に挑戦するなんて馬鹿げてるよ。そもそも建築だけで社会が変えられない、というのは青井先生の意見だけどもちろん賛同で、社会にはシステムやプログラムで解決、改善することがたくさんあって、卒業設計でそっち側がメインになったらあまり意味がないんじゃないかな。問題の解決策が解けたからといって形に表れてくるはずもなくて、そこには多く手を動かした者だけがたどり着ける境地があるのではないかと思う。自分もそれが何かは何も分からないけども。サブスタンスをひたすらに追求したからといってフォームにはならない。青井さんいわくこれはFS問題というらしいよ笑 フォームというかルームにしたほうがより分かりやすいかな。ルイスカーンという巨匠の哲学によると建築を構成する単位空間は部屋という概念であるとされていて全体的にオーダー、つまり秩序が保たれているということ。部屋の次にその空間を支配するのがインテリアってわけだね。建築とインテリアの境界線てどこかな。なんて考えることもある。みんなはどうですか。

 

ここで一つ疑問。先輩でただ一つの部屋が大きなタイヤの中に含まれてそれが世界の建築を支配するよ。みたいなぶっ飛んだ案を出した人がいてね。バカにしているわけではないけど僕の意見を述べさせてもらいます。

正直建築学科にいて4年間勉強してあれはないだろ。というのが第一でしょうか。建築の醍醐味ってその空間にある。もちろん場所っていう言葉でもいいかもしれないけどその空間にはまだ意味がなされてないという設定にするとそこは場所ではなく空間という表現になると思うんです。っていうその空間の設計が楽しいのにただ一つの機械みたいな部屋一つ作っただけ。なんて視野が狭いんだか。かっこよさのへったくれもない。それを建築と呼び、その建築は機械となり世界を支配する可能性はあるのでしょうか。先ほども書きましたが建築だけでは世界は支配不可能なのです。建築が機械として機能し、社会のシステムまでのっとってしまうのはどれだけ先の話でしょうか。

 

価値観という言葉はあらゆる多様性に対し、意味をなす。多様性こそがこの世界の魅力であり、人々が旅をする意義です。なのに世界が単一に統合された状態を描くのは間違っている。その場所には地霊がいて必ず個性が発生します。そのことを踏まえてもこの案の乏しさは明快だと僕は考えるのです。

 

この記事をその先輩が読まないことを祈るばかりです。笑

 

③の議題の前にもう少しこの続きを話したいと思います。

社会の求めているのは建物なのか建築なのか。

社会全体を包括しているのは建物でしょうね。建築はほんの一部。なぜなら多くの人がその空間の楽しさや豊かさに感銘を受ける感覚などもっていないからである。だから設計事務所は模型をできるだけ原寸に近い形で表現し立体の空間を分かりやすく提示する。これが理由でしょう!

しかし社会全体が要求しているからといって建築がなくなっていいかというとそれはないでしょう。分野、ジャンルという分類において建築は建物よりも次元は上なんですから。次元をどんどん下げてしまったらこの世界は本当に終わりですね。

それならプロ野球選手と小学生のリトルリーグの選手の区別なんてなくなってしまいそうです。

 

次元ていう言葉、次元ていう分類の仕方は正しいのかどうか分かりませんがおそらくこの視点はあまりみなさん持たないところじゃないでしょうか。知っている人は常にその分野においてトップを目指そうとするし、そうじゃない人はその世界を知らずに適当にこれが私流だからといって正当化するのです。

 

ひどい世の中です。

普通という概念さえなくなってしまいます。ん、この発言は自分でも良く理解できていませんが。。ヒエラルキーはこの世の中に必ず存在する概念なのです。。

 

まとまらずすいません。

最後です。

 

③です。

まずこの二項対立は対立してませんね。

公に対しては私なはず。

個人に対しては全体という日本語が正しいという指摘は青井さん。笑

 

やはりこの人の言語力はどこにいっても使えますな。笑

 

住宅レベルの動きがもしかしたら都市を包括し変化を与えるかもしれない。最終的に統合しないといけないことを考えると卒業設計において都市の概念の設定がいかに大事かが分かります。

 

ということで公私の間には閾という概念が登場してきますがこれに関してはまずインプットすらできていない僕ですんでやめときます笑

 

 

長々と建築に関して語ってきましたが批判、文句お待ちしております。

未熟な僕の考えにご教授願います。

 

明日は早稲田大学の講評会!

では!

 

あ!忘れていました。

追記。

www.jia-kanto.org