早稲田建築・公開講評会 [論文編]

今日、実際には昨日2月26日は早稲田大学の建築学科の公開講評会に足を運びました。大学の偏差値としては自分の通う大学よりも高いところなので期待して聞きに行きました。というか大隈講堂で一般公開する規模がまずすごいですね。さすがマンモス校です。行程としては修士論文、学部設計、修士設計という流れで、自分は論文は午後の学部設計から見に行こうと12時くらいに会場入り。講堂のどこから入ればいいかわからず恥ずかしい思いを少ししましたがなんとか前の教授陣のすぐ後ろをゲット。いい位置で聞くことができました。自分が入った時にはまだ修士論文の枠が終わっていなかったので少し聞くことができました。その内容から書いていきたいと思います。

 

自分が聞いたのは3つで

 

①養蚕と民家の関係

②オノマトペは建築にどう影響を与えるか

③吉村順三の汎世界性について

 

でした。

 

①では養蚕業の盛んな群馬地域を中心としたリサーチを元に建築の使われ方を明らかにしようというもの。幾つか建築のあり方のタイポロジーをまとめ、どの地域、敷地の様子との関連を研究していました。他の産業と建築の関連を知ることは大切と感じ、熱心にメモを取るもまだ自分の能力不足、全然書き取れず。なんか英語のリスニングもこの前全くメモれなくてまた同じ失敗をしたと思うととても反省です。まず養蚕業には農書や養蚕書が存在しそれに基づいて生活に影響を与えるというか行われているようです。養蚕法を3つに分類し、この辺はすでに分化されているものなのかな、結果的に戦後の建物のあり方として総二階型と名付けられるタイプのものが多く使用されているようです。単純に二層構造になっていて、一層には作業場?養蚕場?があり、二層には住居やホテル、貸家などを置くケースが多いようでした。曖昧な表現で申し訳ないです。この二層部分の空間のストックの使われかたとしてはとても正しいというか、全うというか正当な感じがしました。この案の面白いと感じたところは平面で見た時に戦後の建築には北側に水回りが集まっていることや、屋根の形状操作の論理性などですかね。屋根の形状の決め方って知ってるようで知らないと内藤廣さんが本に書いてました。んあれは東大の授業をそのまま文字にしているだけなのかな。屋根って雨をいかに早く重力に従わせるかなんですよね。現代の建築ばかり見ていると陸屋根が多いですが、方形屋根、入母屋、切妻、寄棟の4つが最短なんだっけか確か。そう雨を効率良く流す屋根の形状って決まっているんですよね。確かその本にはスペインで内藤さんが聞いた話と書いてあったな。おそらく日本よりも地形の変化が著しいヨーロッパでは形状に関しては詳しくやるのでしょうか。日本でそれを教えてもらったことはまだないですね自分自身。まあ建築って教わるものではなく自分で学ぶものなのだと思いますが。話が逸れました。屋根の話は良く覚えていないのでまあここで終わっておきましょう。やはり論文は新しい発見の方に重点が置いてあるので発明がないところが残念ですね。分析で終わってしまったところが残念、なぜなら全国に広がる養蚕業の地域ごとの特徴や敷地に対しての建築のあり方にもう少し触れてくれたらなと思ったからです。

 

②が個人的にとても興味深かったです。

建築とオノマトペの関係。結論としてはひとの表現できない、はっきりとした言葉では言い表せない ”感じ” を空間化できるのではないかというもの。建築家の隈研吾さんや富田玲子さんが使っているらしく、それを踏まえ研究したものと思われます。この案の良かったところはリサーチがすごいのとそこから実際の表現できそうな示唆するようようなものだったところですね。まずリサーチ。宮沢賢治の作品を全て読み込み、オノマトペを抽出。全部で749種類ものオノマトペを取り出し、ランキングを出し、上位5位について考察。データは全部の統計を取っていたので相当な時間を要していることが一瞬でわかりました。その5位とは。しいん、よろよろ、ぐるぐる、ぐらぐら、とも一つなんですが、ノートの自分の字が読み取れず、、わかりません。しらーかな笑

このしいんというワードのみ音と空間のつながりを示すものとして一般化し説明していました。しいんというのはモノの音の表現でもあり、その場の空気を示すこともでき、自分の心の中で感じるものでもあります。それが人間全体で一般的に言えるかどうかがこの案の盲点ですが、それが形に表せることができるのではないかというところに面白みがあります。

これについて思ったこと。やはり建築と言語は本当に密接で切り離せないものなんだなという再認識ですかね。建築って突き詰めるとどうしても哲学的な説明が入ってしまうから言葉ってだいじだなぁて。芸術として建築作品を見てしまうと言葉なんていらなのではないかなど思いますが、実際建築家と芸術家は明確に違うし、明解な境界線など存在しないでしょう。村野藤吾さんなんかはほとんど言葉を残していないんですよね。それってすごいことだし、本物って感じがします。言い訳もできないし、形として表したことが村野さんの作品なんですよね。って彼のお孫さんの本に書いてありました。衒学的ではないのがかっこいい。スイスの建築家ピーターズントーなどもそういうひとでしょうか。あまり自分をカッコよく見せることもせず、ひとにいい評価を受けたいということも考えず、ただひたすらに人が幸せになれる空間作りに徹する。いつの間にか有名になっているみたいな。カッコよすぎ。言語は付随してくるものであってあくまでwithであることは忘れずにいたい。でも先に身につけるべきは言語であって、建築以外の知識、話の際に言語さえ使えればいいのです。と思ってますが、まず日本語の語彙力さえ未熟な自分がとても恥ずかしいです。

 

この論文に関する先生のコメントは日本語の感覚に収めてしまったのが残念ということ。海外の言語体系ではどのくらいのオノマトペが存在してどのような感覚なのかまで話を広げたらもっと面白くなるねって。虫の声を擬音語にすると右脳と左脳で使うところが違うみたいな研究もひと昔はあったようで、はっきりとした表現ができないムズムズさはどの時代もあるようです。さらにそのオノマトペを使う際には必ず文脈が存在し、それを無視することはだめだろうという指摘。これは間違いないですね、しいんというオノマトペから情景を浮かべるのではなく周りの状況、設定は必須です。宮沢賢治がオノマトペを多用した理由は彼の考えている情景を読者側に想像させるためではないかというのは友達の意見。その通りで本の一番の魅力は情景が読者の解釈によって異なるという点。だから細かい描写が事細かに書いてあるよりもオノマトペを多用している分の方が実体験に近く、読者側は知らず知らずと本の世界に迷い込む。まさにストレイシープです。太宰治のような衒学的な本も面白い人は面白いでしょうが、やはり小説の魅力は。という感じです。まあ話を世界に持って行ったら文化の次元に入り込むのでほぼ100%まとまらないと思います。なのでこの論文はあの完成度がちょうどいいのではないかなと感じました。文化の次元はなかなか越えることができないですからね。いくら海外にいようと世界中のひととうまくやっていけるわけはないのです。うまくいっている風なのです。だと考えてますがどうなんでしょうね。あの国のひとはみんな優しかったよ!と旅行から帰ってきていっちゃうんですよね。何がみんなだよ、テレビの視聴率よりも統計になってないわ。って感じです。嫌なかんじですね、僕笑

 

③です。

この論文で得たことはなにかと言いますと、京都に俵屋というふるーい高級旅館があるんですけど、その設計したひとが吉村順三であったという事実でしょうか笑

 

つい最近骨董屋のおばちゃんから聞いてしった俵屋。行きたいなと思っていたところ、まさかの設計者が吉村さんだとは思っていなかったです。行きたさ倍増。次の関西の目標は大山崎山荘、兵庫県立美術館、宝塚カトリック教会、そして俵屋ですね!!

 

ジャパニーズモダンの先駆者は王室側に認められず、日本の建築界を退き、彼の建築はロックフェラーの自邸に全て表現されているようですが検索してもヒットしないのでよくわかりません。

 

 

 

設計編はまた後日。