白黒の訳

どうもみなさん。お久しぶりのブログです。

勉強が全くはかどりません。It's all my faultなんですが笑

やばいですこの状況。

わかってます。しかし体が違うことをするんですねぇ。

俗に言う「やる気がでない」状態です。

 

そんな最近を過ごしているのですが、今日は写真について書こうと思います。

www.instagram.com

 

やっとフォロワー様が500人突破しました。

これからですね。

しかし日本人からは全然コメントが来ないですね笑

外人さんからは構図がいい、素晴らしいコントラストだ。などのコメントをいただき喜んでいる訳ですが、日本人からはまったくこないです。

これはいいことなのか、悪いことなのか。

 

 

そして本題の「白黒の理由」です。

 

まずフィルムカメラで撮って、その独特の表情がいい。という評価をしている人への批判です。批判というよりも本来のフィルムの能力を示したい。という方がわかりやすいでしょうか。もともとのカメラというもの自体、この世界にはフィルムしか存在していなかった時代があります。デジタルより前は露光時間も長く、一つの写真にかける思い、時間は長かったことを知ってほしいです。

 

どういうことかというと、デジタルの写真を見慣れてしまった人々は、フィルムで撮った時の淡い感じをフィルムのいいところというふうに勘違いしているのです。それは圧倒的なミスです。感度(iso)、シャッタースピード、絞り。写真の質を決めるのはこの3点です。フィルムでは撮った直後にどんな写真が撮れているのかがわからないのが欠点でもあり、現像する時の楽しみでもあります。

 

しかし実際に現像して、おおーこれがフィルムか!

と感動しているあなた。

大きなミステイクですよ。

 

それは先ほどの3点がうまくいっていない証拠です。

 

じゃあうまくいってたらどうなるか。

そう、デジタル並みにいい写真が出来上がるのです。

しかも三脚を使わず、1枚しかその被写体にシャッターを切っていないならば、その人がデジタルを使ったら化け物になるでしょうね。

デジタルと同じくらい綺麗に撮れるはずのフィルム。

残念ながらそれをわかっている人はかなり少ないと思います。

実際、完全機械式のカメラをデジタル使っている人に持たせたらほとんどいい写真にはならないでしょうね。なぜか。自分がその経験があるからです。

 

今フィルムで撮るからこそ、故人ヴィヴィアンマイヤー、リチャードアベドン、ダイアンアーバス、、、などなど著名カメラマンの凄さがわかる訳です。

 

 

さてこれだと白黒に関しては何も触れていないですね。

 

そう、白黒にすると、どんな写真もぽくなるって?

それも大きな間違いです。

白黒にすることによって、つまり彩度を0にすることでその写真がちゃんと撮れているかどうかがわかる訳です。

では実際に僕が撮ったものを比べてみましょう。

 

初めの2枚が失敗、後の2枚が一応!成功笑

ということにしましょう。

 

実際にもっと上手い人はもっと綺麗に撮ります。そこはご了承ください。

 

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①枚目はいい表情のおじいさん。構図もバッチリ。長年着ているコートがこの人と完全にマッチした雰囲気。どこを眺めているのか、どこか心配そうだけど、この土地に慣れている感じですね。しかしピントが合っているとはいえない。

 

②枚目はピントはしっかりとハリーウィンストンにあっているので絞りをもっと開いた方が良かったかもしれません。本来なら女性のバッグのバックルの様子などまで見えるはずです。

 

③枚目は信号無視シティ、ニューヨークならではの光景でしょうか。どこで待っているんだと。彼らには信号は関係ありません。車側もそれを理解していて、人が渡っているとちゃんと止まってくれます。多様な文化から成り立っている国だからこそ色んな人が色んな方向を向いている感じが撮りたかったのです。マンハッタンの縮図とはいかないもののそのような、、kind of です。ダウンの表情や後ろのジャケットのシルクの感じがよく写っています。

 

④枚目はパジャマだろって感じなのに決まっちゃう外人さん。地図を見ながら歩いていたのでニューヨーカーではありません。服の生地の具合がよくわかります。左の女性が眉間にしわを寄せ悩んでいることがわかります。後ろには観光バスがぼやけて見えます。この時は絞りは3.5でした。被写体深度が浅いとこんな感じに前と後ろでコントラストができて普段の人間の目に少し近い感じでしょうか。被写体を真ん中に配置し、王道のコンポジションです。

 

さあ違いがわかりましたでしょうか。

白黒がごまかせるって思っている人へ。

 

逆です。

おそらく下二枚はフィルムで撮ったと言われないとデジタルの画像に見えると思います。これでこそカメラを使いこなし、カメラが好きで、写真が好きな人だと思います。

 

僕の価値観でものを述べさせてもらうと、好きならとことん好きでいてほしい。

 

適当にカメラが好きとか言わないでもらいたい。

 

これからもカメラワークに励んでいきます。

デジタルに負けない写真を追い求めて。

 

フィルムで撮る理由もいつか言語化しますので、その時まで。

ではまた。

記憶、忘却

昨日記事で書いたこと。

その場所であることを思い出したり、想起させることに意味がない。

みたいなニュアンスのことを書いた気がする。

意味がないというより、それをコンセプトとすることの意味は建築を建てる際に主になることは滅多にないのではないか。

というふうに言い換えた方がいいかもしれない。

 

墓という用途、墓地という場所がそれが存在しないときよりその場所を豊かにする可能性はあまりないのではないかと思うのである。

そもそもお墓の意味って。精神の魂と肉体の魂が別々に宿ることを目的としてるものであり、土に返すのは肉体の魂のみ。精神の魂は天に還る。

なんてことは宗教チックで無神教の僕には何もわかりません笑

 

まあ何にしても死者を大切にすることが生と死を考えるための場所を与えるのである。と自分は考える。

 

さて何が言いたいかというと、2011年のあの事件である。

同時多発テロの後の9/11メモリアルの慰霊碑に関しての感想をあるサイトで見つけたもので。

というのもNYの予習で建築を調べているとあるブログにいきついてね、サラッと感想が書いてあったわけよ。

 

「言葉を失った。なぜこのたった数年前の単純な事実を忘れていたのだろう。」

 

こうあった。

この記事を見てそういえばと思い、昨日自分が言葉にしたことと繋がるなと感じたのである。

 

滅多にないコンセプトがこの慰霊碑のコンセプトなのではないか!

おそらくこの場所の持つ意味はかなり巨大で、無関係の自分にはほとんど記憶にないが、死者の関係者やその当時アメリカにいた人は一生記憶の中にあるだろう。

この事件に関しては自分もないが、東日本大震災の記憶は明確に自分の頭に刻まれている。その当時中学を卒業し暇な時期である。友達と野球をして遊んでたらグラウンドと電柱が揺れ始めた。

海から離れないとと北に向かい、家族と安否を確認しあい、、

 

これが記憶である。

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自分が卒業設計で扱いたい目に見えないものを形にすること。

 

それにも繋がると思い、今回未熟ながら言語化してみた。

見ての通り稚拙な文章で読みにくいことをここでお詫びしたい。

 

まとめ。

建築設計におけるコンセプトを自分で設定する場合、死に関連することを扱うのは評価を受けにくいのではないか。なぜなら評価する側も設計した空間を想像しにくいからだ。他人の経験を超える事実を作り出すのはそうとう難しいのではないかと考えるのである。

 

むしろそこを狙うのはありかもね。

 

ではNY予習続けます。

今回は時間も短いので優先順位つけてガチで効率しか考えません。

無理なことをやります。

壁は壊します。

はやくいきたいですね。

 

 

 

 

 

早稲田建築・公開講評会 [設計編]

第二弾です。

早稲田大学の建築系の卒業設計について書いていきます。

 

前書いた論文編は下のリンクからご覧ください。

 

sakush0mylife.hatenablog.com

 

設計編はね、最初焦ったって話からします。

ポエマーが登場したんですよ。笑

最初にそんな感じのが登場してしまうもんなんでびっくりして、え、まさか早稲田やばいんじゃねとか思いましたw

ちなみにその案はマジで理解不能でした。

そのグループでメモったのは詩人建築家の立原道造という人物のみ。この人は24歳で急逝している著作家です。まだこの人については何も知らないので今後何か読んで感想でも書こうかと思ってますが。

 

建築と言語は繋がっていると前回の記事にも書きましたがあまりにも建築<言語というか詩語だったのでこちらからしたら??って感じ。

 

面白いと思った案は正直明治大学よりもなく設計が最後の最後まで空間化されているモノも少なかったので詳しく言語化するのは2つにします。

 

①生と死の循環を都市に提案する

②東京に溢れる地下空間を地上と明確につなげる

 

この2つでいきましょ。

①は2案が似ているコンセプトと捉えたので一つにまとめてしまいました。

というか

早稲田大学って卒業設計が3人1組なんですね。

会場に行くまで何も知りませんでした。笑

これによる利点と欠点はこうです。構造、環境分野ともに実施レベルまで突き詰めるので勉強になる。が、中途半端で終わる。

 

①の案はまとめると貝塚の設計です。面白いと感じた点は時間の流れを扱っているところですかね。どういう案かというと

 

元来、死は完全な終わりではなく、物質として新しい生の糧となり巡っていくはずが、都市ではそれを容易に忘れかけてしまう。今や死は日常から隔てられ、死にまつわる場の不足や管理が問題となっている。敷地は東京湾多摩川河口。人工化の裏で本来海と大地の大きな営みがある海際に、散骨場のある親水公園を計画する。私たちが命や自然の大きな循環の中で生きていることを、ふと想起できるきっかけの場として東京湾が巡り始める。

 

という感じです。

これは配られていた資料から抜粋しました。

実際この大きな循環で生きていることを認識する必要性についてはよくわかりませんが。普段忘れかけていることを思い出して、とか、子供の気持ちをもっと考えようという案の意味が理解できないのは僕だけでしょうか。今の自分からしたらどんなに提案が他のひとと違うことをやっていてもそれが人間の身体にまで落とし込めていないとダメだと感じる一面があります。大きな世界に生きているのは誰しもが自覚可能で自明であるし、それを建築を使ってまで表現する意味があるのかと感じるのです。子供視点で考えるということは敷地よりもつまりハード面で考えるよりもソフト面、つまり精神的な影響、それから原風景の方にいい印象を残すことに重視するならばまだしもそこに空間的な提案をしたところで子供が喜ぶとも思いません。この国が作り上げてきたものは素晴らしいものであるし、過去にすがりたくはないけど革命まで起こす必要のないものかと。結局この案は一つに場所で起こった都市がいろんなところに派生していくみたいな一般化で終わっていましたが、さすがに今の時代ではもう一般化では社会は解決できないでしょう。

 

この案で言葉的に面白いと感じたのは物理的に有機的に建築か、土地が拡大していくというワードに対してでした。ここもうちょいちゃんと聞いていればよかった。メモに書いていない笑 時の流れを感じて、建築更新を思考していくみたいな感じかなと思ったけどそれは違う案だ。あとでそっちの追記にしたいと思います。

 

②地下と地上をつなげるやつ。これは単純に興味を持ちました。実体験から恐らくみなさん東京の地下空間の乏しさと不明確さを感じたことがあると思います。自分も同じで地下空間にはいつも困らされています。東京駅の近くは地下と地上の間に半屋外空間みたいなところを作り、カフェやレストランを置いている場所もありますが、あれはいいなと感じたことがあります。

実際東京には古い大正時代の建物から現代的な建物まで様々なファサードを持った建築があふれています。混在した今の時代でそれらを繋ぐのはやはり地下空間のようです。オフィスの下には安いラーメン屋、安いコーヒーが飲める喫茶店などが必要になってきますよね。

 

このグループが扱っていた範囲の都市はある程度的が絞られていて、設計するには丁度いいスケールになっていたのではないでしょうか。始めに断面図を示してくれたのもすごいよかった。もっと細かく寸法を聞いてみないけどパースの人間のサイズの感じもよく現れていたのはよかったかな。でももっとスケールをあげてその場でのアクティビティが描けないといけないのかな。アイレベルでも隣の人が画角一杯に収まるくらいの方がわかりやすいと思いました。

 

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記録用に自分のノートも載せておこうと思いますがとても人に見せるものではありませんのでスルーしてください。

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全体の総括として学部の卒計は大したことがなかったです。。

始めに書いたように中途半端な案に終わってしまう欠点が全てで、評価のしどころがない案も何点かありました。

それに比べ修士はレベル高いですねぇ。

ほぼ感動を覚えながら聞いていました。

特にこれといって書きたいこともないので書きませんが笑

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タイピングって疲れるんですよね。

普通に話していたい。

 

てな感じで明日は合格発表。

家庭教師の子が受かっているといいな。

 

ではお休みなさい。