建築ノート

【今考えていること】

・装飾について

装飾は形を変えて戻ってくるべき時代であると思っている。

 

フロイトの言葉、抑圧されたものの回帰。フロイトが提唱した言葉で、精神疾患を抱えた人間は、過去に性的虐待を受けていた事例が多かったことから、防衛本能により、記憶を消し去っても、無意識下で抑圧された記憶が残り、常に無意識の領域から、意識へと影響を及ぼす、回帰するという意味であると理解している。著書の中でも形式諸相動詞や回帰表現などは、中動態の抑圧によって説明できなくなったものを説明できなくなったものを説明するために作られた概念であると記載されている。簡単に述べると抑圧されたものが別の形で現れるということである。この言葉をあげた理由としては、建築において、抑圧されたものが装飾であると仮定できるのではないかと考えているからだ。モダニズム以降、洗練の作業が行き詰まった後に現れた建築は、装飾形態の変化として、読み替えることができるのではないかと思っている。経済的に余裕のない建物であろうとも、意志の夢をみて、抑圧された装飾が回帰的に現れていると思われる作品がこの時期(ポストモダン)からで始めるようになる。」

 

装飾を排除したかに思われた近代建築と呼ばれる一種の様式は建築全体が装飾になっているという解釈をしている。経済的な合理性のもと消えたと思われた装飾は、新しい建築を目指すスターアーキテクトのよって形態操作が行われ新しいと認知させる装飾を生み出しているのだ。

 

アドルフロースは『装飾と犯罪』の中で装飾を批判している。彼のいう装飾とは何か。外観は簡素でいかにもモダニズムを語ろうとしているミュラー邸を例に考えてみる。内部の空間を最大限に使うべきであるというラウムプランによって配された空間は3次元的に広がりを見せている。それをわかりやすく伝えるためのダイヤグラムはアクソメで書かれていて家具がない限り、ほとんど現代建築である。新しい空間を生み出そうとする姿勢がみられる。しかし内部の写真をみてみると一転。装飾で溢れているのだ。食卓には絨毯が敷かれ、暖炉の周りには布の貼られた安楽椅子が並べてある。家主が気に入っているものを置くためのスペースや備え付けの家具が事細かに設計されているのである。では一体彼のいう装飾とは。「様式的で趣味性豊かな部屋」というワードを多用している。つまり建築家による(能動的な)今までの様式で統一された、それが当たり前とされてきた空間作りを施主に与える(中動的な)ことを否定しているのである。その施主、客が飾ることに対しては何も否定していない、むしろ肯定している考えと解釈している。おばあちゃんが使っていた椅子、ボロボロの写真たて、衣装箪笥などそのモノ自体にストーリーがそれぞれの人間にあるからこそいいのであって、統一された(受動的な)建築はダメだといっているのである。

 

現代建築の何が装飾なのか。コンセプトや図式的モデル、ルールなどある一定の統一された考え、意志によって何かを表現しようとしている。これがロースが批判した装飾や様式なのではないか。この思考が現代建築の一般解ならば、禁欲的なまでに装飾がないように装っているが、その装いこそ装飾である上に、形態までも装飾になっていると理解できて、つまり現代建築は抑圧されたものの回帰であると言えるのではないだろうか。

 

ここで装飾になったことで何がいけないかというのがサナーの結束バンドや、シーリングの多用であり、駿府教会の雨漏りである。建築としての有用性を満たさずして、装飾を生み出してしまっていることに気づかない現代建築家に否定的であるのである。新しいモノをつくろうとするあまり、意志を形態化しようとするあまり大事なことを忘れてしまっているのだ。

 

 

・美について

建築の美についてはある解が出ていることとしている。美論において一番有力な考えをしたのがカントの判断力批判であろう。その説明は省くが結果として美と快楽、有用性、善、神などは同じものではなく、それぞれ独立したものであり、結果として美はある種の共通性を持っているが、無関心の中に生まれる考えで、概念は存在しないとしたものと理解している。丹下健三は「美しきもののみ機能的である。」という言葉を残しているがこれは機能的であるから美しいという単純な考えを否定し、つまり古代ギリシャからソクラテスの言説により理解されているはずのことを忘れているからこそでてくる言葉でもあるのだが、要するに有用性=美ではないことは自明であるとしなければならない。しかしその逆の美ならば機能性も担保しているというのがこの丹下健三の名言なのである。

 

 

 

・本物と偽物について

本物とは何か。恐らくこの解は過去にあるはずである。本物を知るためには偽物を知らないといけないし、偽物を知るためには本物を知らなければならない。これは建築に限った話ではなく、どんなモノに対しても言えることであると考えている。マホガニーという高級木材を模したデザインだということを見極めるためには膨大な経験と知識が備わっていなければならない。贋作というのは昔からあり、それを鑑定する専門家がいた。建築を創る際には本物を鑑定するのは建築家でないといけないのではないだろうか。主に材料の選定、組み合わせをよく知っていて、施主のために知る限りのことを伝えアドバイスができる。決して売りつけてはいけない。むしろ、その材料のことを施主にも理解してもらった上で(その材料を手入れするのは彼らだから)使うべきなのである。

ここで一つ身の回りの話を。骨董屋のおじいちゃんは「モノを知らない奴にモノを売ることはしない」そのモノが誕生したプロセス、経緯、歴史を知らずして身に付けて欲しくないというのである。帽子屋のおじいちゃんは「君が店に入ったら全力で君と話すんだ」といい、お店の扉を閉めて一対一で対話してくれるのである。つまりモノに関して知ってからじゃないと売りたくないという意思の表れであろうと解釈している。骨董やビンテージ品は知識があってこそ身に付けて良いモノであり、それは建築にも言えるはずではないのか。使用者は自身の建物についての知識なくして住んでいるというのが実情でないか。専門家であるはずの建築家はどこにいったのであろうか。作家性だけ追い求めてまだ装飾を生み出そうとしてはいないか。

 

・類似と相似の考え方と建築

この世界が類似で成り立っていることを証明するためには「これはパイプではない」というマグリットの絵画においても7つ以上の相似を使用する。つまりこの世界は相似で成り立っているというのがフーコーの考えであると理解している。つまり類似の概念によると母体があってそれに対して何か模造がされる。しかしその模造と母体はどちらがどちらかを判断することはできないのである。モノだけ並んだ場合すべて相似の関係に落とし込まれてしまい、すでに類似の関係にはないのである。類似の関係は人の持つ思考においてのみでてくる関係なのである。建築でいうならば建築ができるための母体として、人間の意志があって初めてできてくるものであるとみていいだろう。意志があってこその建築。これが今の建築教育にそのまま反映されてはいないか。コンセプトを考えろ、そのルールを自分で作ってそれに従えばある一定の統一性を持った建築ができる。と。これは本来の建築の建ち方なのだろうか。とにかくそこに疑問がある。

ではこの類似の関係において建築ができる瞬間とするならばリノベーションはどの立ち位置にいるのだろうか。明らかに図式的なルールの形態化ではないことは確かである。活用方法の変更、用途の変更、その他様々な施主の要求に対して建築が答えていくというものだ。もう少し理解が必要である。

 

・様式とは

自分たちが歴史を学ぶ際に様式別に習うのが建築史である。この様式とはある一定の期間において最上とされている考え方や形態のパターンを一般化できる場合に適応され、それが難解化した近代建築たちは様式とは括られにくいのである。自分からすればモダニズムという一つの様式であるが。その期間を分け、思想を分類し、形態の特徴を分類して学ぶことで建築に関しての思想の流れがわかるということだろう。様式がなくなったとされる今、この様式とやら呼ばれる形態を取り戻すことを考えたりしないものか。つまり装飾の回帰に繋がるのが様式復活論である。

様式はスタイルという英訳がされる。スタイルとは本来、ある主体に対して一つの傾向がみられるだけの意味であって、決して断定してまとまるものではないと理解している。スタイルこそ建築であり、それがその建築に関わった人のスタイルが現れるのである。ヴォーリズは「Save the surface and you will save all.」と言い残しているのと関連させると、服がその人を表すように、建築もその人を表すのだ。よって主張したいことが全面に出るべきものではなく、受動的な客体が受け取る評価によってスタイルが確立されるものであるのだ。要するに建築家は作家性を表現するのではなく、建築を建てた結果として作家性が出てくるものだと考える。

 

 

・コンテクストについて

建築はその土地に融和するべきである。人間が作り出す建築は神が人間や自然を創り出したようにある完璧と認められる形態に収まらないといけない。つまりその土地に見合った唯一無二の建築ができるはずだということが言いたいのだ。それがなぜか近代になって地面から解放されたとともに、土地風土からも解放されてしまったのだ。

 

・建築設計について

「設計をするとき、何かを作るとき新しいものを考えるとき我々は自分の意志によりなにかを作りだしていると考えている。」

つまりコンセプトがあって、思考があって、意志があってそれらがダイヤグラムを経て建築という形態として結果に立ち現れてしまうというプロセス自体に肯定的でいいのか。現代の建築教育の世界に留まった結果教育する側の考えを参考にする学生はここに疑問を抱くことがない。例えば”時間”をコンセプトにして形態に落とし込もうと考えた場合、目に見えない概念を表現するためにはモデルから考えるジレンマに入り込む。つまり不可視な言語を物に昇華させようと考えると簡素な幾何学的モデルができるのがオチでそれ以上の物が生まれたと判断できるのは時間を経てからなのである。東洋と西洋でよく二分される時間の概念は以下の通りであると理解している。一つは一方通行の時間、過去には戻ることができないという意味の時間。もう一つは春夏秋冬のように、巡りまわって戻ってくると考えることのできる時間。なぜか1年経つとまた同じ花が咲き始めるのである。その度に人間は過去に戻って回想する時間を体験することがある。しかしそれは同一の時間ではないので、この二つの時間概念をモデル化すると螺旋構造が浮かび上がってくるのである。わかりやすい例で言うならばフランクロイドライト設計のグッゲンハイム美術館であろう。円弧を一周するが同じ場所に戻ってくるのではなく、1層下、もしくは上に移動しているという空間体験を生み出す建築である。コンセプト建築論を肯定する理由はどこにあるのだろうか。という疑問を提示するにすぎないがその入り口として”時間”建築の論をあげた。社会にでるとそんなことができない、スターアーキテクトになるまでできないことはわかりきっているのに、教育はそのままなのである。

「建築において、建物を設計する行為は、建設された建物(第二の要素)にその本質(必然性、作家性)を表現すること。表現する際に、その本質のもつ必然性に基づいて行為しているか否かによって能動か受動かの度合いが変わる。必然性に基づいて行為している者は自由である。」

自由と強制=能動と受動という仮定が成り立つならば、「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である。」

「設計する立場としては、我々は何らかの始まりとして新しさを求めてはいないとは言い難い。意志とは、始まりを司る能力であるとすると、何かを発見したい、新しいものを創造したいという欲望はどう扱えばいいのだろうか。その始まりを求めるとき、過去を忘却しているらしい。」

 

・新しいとは

二項対立で考えてみることにする。AとBというモデルで考える。年号でいうとAが先、Bが後という仮定で進めていく。この場合、時代における新しさはBが持っていることになる。しかしBがAの全てを包括して出来上がったとはいえない、つまりAの反省を受けているはずだがAでできていることを忘却するのだ。これが始まりを求めるときの記憶の無意識化であろう。意識にあったことを自然と無意識領域に送り込むのである。この時点で、継承できていないことに関してはAの方が新しいのである。もしこの構図が正しいとして、時代が進んでしまうのならば、ずっとAが新しさを持ち続けるのである。なのに人間は時代区分を判断基準の一つとしてほとんどを考えてしまう。さて、Aの方が先にできているという見方はどうだろうか。優劣で考えるならばこの場合先に完成しているAの方が優にあたると考えがちではないか。しかし古典建築が生み出せなかった水平ガラスの光のように有用性、快楽の点で改善が進んだであろうモデルBは優に値しないのであろうか。いや決してそんなことはない。つまりここでなにが言いたいかというと、「新」「NEW」が今までの時代を包括、継承しているというステレオタイプに現代はなってはいないかについてなのである。実際の建築で考えてみる。敷地に調和する、溶け込むという点において意志が同じである建築を取り上げていく。Aをフランクロイドライトの落水荘、BをSANNAのなかまちテラスとする。時代でいうならば落水荘が先、なかまちテラスが後ということになる。自然に溶け込むためにとっている手法はライトは自然材料にこだわり、永い時間を見据えた設計、サナーはライトの時代にはなかったという点において「新」しい材料を使い、新しいらしい見え方による調和を取ろうとしている。だからと言ってなかまちテラスが優なのか。いや違う。エキスパンションメタルの接合は結束バンド、一般人でも買える、大衆が知っている材料を使いとても見ていられない。シーリングを多用し、自分の材料の主張を「頑張って」表現しようとしている。この材料の主張、空間の主張こそかつての装飾と同じものなのではないか。むしろ質が劣ったデコレーションである。新しいとされる材料を使い、結果できた形態自体が装飾なのである。こういう見方もできるため決して現代の建築が優とは限らない。これが筆者の根底にある何かを刺激している。

 

「なぜ新しさにこだわる必要があるのかと、疑問に思われるかもしれないが、現代の建築を見ているとどこかに新しい、かつ、始まりかのような作家性を見出さなければいけないかのような空気を感じるからである。意志の概念が否定された場合、今の作家性とはなにか。モダニズムの時代の作家性はその新しい理念はあれど、どのように表現するかは、各個人により違う。何らかの新しいことは共有しつつ、建物それぞれの意匠には違いがある。これを作家性と理解すると、現在の作家性という概念は、過去の作家性の概念以上の存在になっているのか、それがそのまま様式または新しい理念であるかのように振舞っている。」

 

作家性の観点は優劣ではないというところに合致している気がする。

 

 

・現代の建築と過去の建築とは

様式を脱出し、国際様式となった建築、どこにでもできてしまう建築を一つの様式とするならば、大きく分けると古代様式建築と近代様式建築と二分される。それが過去の建築、現在の建築という関係になるのだろうか。

 

ハウスメーカーと同じ?

もしモリス商会の矛盾を解決しようとしたならば、現在装飾を取り戻し、発達し続ける技術を使用するならば、この操作はハウスメーカーとやっていることは同じになってしまうのだろうか。これは友人による指摘である。

一回ハウスメーカーの建築界での立ち位置と仕事の内容について整理してみたいと思う。ハウスメーカーが生業としてある理由としては大衆に安く住宅を売買できるということが第一にあろう。なので建材の選択をするときもカタログから施主が好きなものを選ぶというシステムが成り立っている。しかし施主はこのことに対し、知らずして家を買い、後で文句をつけるという具合だ。これはいわゆる。。

 

・なぜヴォーリズなのか

建築の本来あるべき姿、本質的なことを深く考え実践している。社会問題や都市住宅問題から目をそらすのではなく、むしろ仕事に勤しむ日本人に対し、豊かな心を取り戻すきっかけを与えているかのように感じるのである。ライトと思想が重なるところが所々見られ、その土地から生成的な建築を目指した。自然に調和しなければならないということは一切説かず、環境への適応の仕方を常に心においていたのであろう。何より大切にしていたのはその場所、その空間を使用する人間のことである。ごく当たり前のことのように聞こえるが、どうしても建築家は自分の主張を念頭にペンを走らせる傾向にあることは忘れてはいけない。その点彼は人に暖かい空間デザインをし続けたという立ち位置になろう。経済的や社会的な傾向というのは言ってしまえばファッションである。ファッションというのは流行りという意味で使用した。時代は常に流れて、歴史は繰り返すが、どの時期にも流行りというものが存在する。どの分野にも言えることだが、結局はクラシックに行きたいものだ。スタンダードというべきか。最低限という意味ではない。普遍的なという言葉が適しているかもしれない。ロースの認めたスタイル、様式、長い時間を経て出来上がった統一性、ライトのいう「真の様式」へと建築は向かうべきである。向かうというのはいささか未だそこにないという捉え方がされそうだが、そうでもない。常にその姿勢の人はいるはずである。

 

 

 

・なぜモリスなのか

手仕事が忘却された時期に始めに運動を起こして、あらゆる意味を包括した「美」を追求した人物と認識している。彼の求めた世界は「美」であり、その源泉は中世に存在していた。この世界にある自然物を忠実に写し取った彼らはラファエル前派と呼ばれるが代表的な人物にボッティチェリが挙げられるだろう。神話の世界と現実の世界の言葉の結びつきにより絵画の中にある物語を紡ぐのである。壁紙のデザインなど装飾だという人がいるかもしれないが、その装飾は人に幸せな思いを与える。それこそが装飾(不必要な)の意義である。コンクリートの冷たい空間が嫌だという部類の人はこちら側である。また「被覆の原則」を出すならば、空間に求められるのは質であり、はじめに絨毯やカーテンなど優しい素材のもので囲まれたいという思いが先に来るというものだ。その通りでそこに住もうと考える人が求めるのは心地よい、暖かい空間なのである。それを忘れてはいけない。

 

 

 

・材料について

本来建築の材料はその建築が建つ場所の近くの材料を使用していたはずである。なぜならコスト削減や人件費削減、当時は削減と考えていたわけでもなさそうだが。その土地に根付く建築はその土地の一部になるわけなので自然物を排除し人工物を構築するのでできる限り自然物に近いものでなければならなかった。模倣の原理をしっかり踏まえるべき事項。

「芸術家にとっては、どれをとっても材料はすべて同等の価値を有するモノだとしても、ではある目的があって、その目的のためにすべての材料が一様に役に立つか、同等の効果を有するかという段になるとそうも言えない。要求される強度とか必要な構造を考慮した結果、しばしば建物の本来の目的にふさわしからぬ材料が選定、決定される場合すらある。建築家に与えられた課題は居心地の良い空間を創ること。ということは初めに考えるべきは使用する材料であり、絨毯であり、窓の位置であり、食堂の位置であり、、つまり被覆の原則に則って空間を考えるべきなのではないのか」

みたいなことをロースはいうのである。

 

・本来木造である寺がコンクリで作られたり、レンガ造に見せかけたパネルで仕上げることに対して

材料には必ず適材適所がある。躯体部分は他の材料でもいいかもしれないけど、内装や家具に関しては経年変化を楽しむという一面もあるためやはりそれに変えられないものが生じてくるはずだ。材料のことを知るのは仕事を始めてからも時間がかかりそうだし、本物を見極めるのはかなり難しそう。しかし、あることにおいてはだいぶ目が鍛えられているという自負があるのでそこはなんとか踏ん張りたい。ここに関しては知識ではなく、経験が必要な部分。

 

・意志について

「意志という概念は哲学的には存在を否定されている。建物を設計することや歴史を紡ぐことを生業としている者にとって意志という言語が常識的に使われ、何者かを創造していると認識しがちな建築の世界で意志の存在を否定されたとき何が起こるのか?」

 

・コンセプト=形態とは

物事には必ず原因がある。因果応報。つまり建築ができたという結果があるならば、建築ができるための理由があるわけで、それは時代によって異なるイデオロギーがあるのだろう。とても追い切れたものではない。しかしこのコンセプトがそのまま形態操作に繋がるのはなかなか理解しにくいところである。学部時代はそれで勉強してきたが、それがファッションなのではないかと考える。つまりいずれ廃れる建築を作り出す流行である。スタイルは何か。。

 

・芸術と建築について

芸術家と建築家は全く違う。芸術家は人に認められようがそうじゃなかろうが、1人でも認めてくれる存在がいればそれで芸術だ。壁の落書きなんかも時には立派な芸術であることがある。しかし建築は世界に、人に、世間に認められて初めてその価値を生み出す。社会要請に応えることは前提条件の建築は芸術に近づきつつあるものの、芸術の一範囲にすぎない。人が使い始めてからがまた面白いところなのだろう。実空間が出来上がってきて建具の納まりなどを見るならば、まさに芸術なのだが。。

 

 

 

 

・建築と黄金比について

建築は人が使用するものであることが大前提としてあるが、それを支えているものは数字である。数字という一つの指標がなければこの世界は成り立っていない。つまり数字は建築を支配していると言っても過言ではないと理解している。コルビュジェの提唱したモジュロールもトラセ・レギュラトゥールも数の世界あっての話である。

ここで取り上げたいのは自然物や人間の身体の中にも存在する黄金比白銀比についてだ。モダニズム建築家コルビュジェ、ミースの建築においても分析によりそれらの比例に近しい数字が読み取れることはわかっている。平面図においても、立面図においてもそのプロポーションは見える。古代ギリシャ神殿において柱の下部直径を基準として柱の間隔や高さが決められる例をとってもプロポーションの良さを肯定的に設計するためには使いやすいのが数の比例である。人間の使用用途に従って寸法を決めることもできるが全体的な統制をとるためには黄金比はいい。しかしその黄金比がどう人間の感覚に影響を与えるかは視覚以外にはまだ理解していない。

今回の家具から考える建築はものから始まるので、全体のプロポーションを先に決めるのはナンセンスである。いやむしろそれが面白いのか。意志によって建築の形態が立ち現れてくるならば、自分の今の意志はつまり建築を立てるためのルールになってしまうのが家具なのか。コンセプト建築を否定していながら自分自身も家具というコンセプトの範疇に入ってしまうのだろうか。。

 

吉田五十八の建築について

彼についての本から自分の建築設計に繋がる箇所を抜粋したいと思う。

「新聞が最も珍しい工夫として紹介したのはベランダだった。名前ほど大げさなものではなく、縁側廊下のコーナー部を少し広げた、板敷きのサンルームである。一面のガラス戸によって、南側と東側が戸外と接しているため、外光がかなりふんだんに降り注ぐ。」

「従来、住宅は居間なら居間、寝室なら寝室とその部屋のプライバシー(部屋の独立性)にのみ重点をおき、部屋と部屋のつながり、部屋の因果関係というものを考えてプランを立てた人はいない。」

これは現在において当たり前のことだが、逆にプライベートな空間の作り方は希薄なのではないだろうか。住宅を都市と見立てることができるのならば同じようにパブリック空間とそうでない空間があるはずだ。そのシークエンスを考えるのが楽しいところでもある。

「建築と庭というのは絵と額縁の関係なんだ」

西洋に偏った発言も残しているようだ。額縁で切り取る考えは本来窓の小さい石造建築の西洋で日本は絵を掛け軸にしていたので風景を切り取ることに関してはあまり長けていないと解釈している。平安時代の蔀戸も完全にオープンにして風景そのものを楽しむための装置であったはずだ。庭と建築が一体であるべきなどの思想があるのだと思う。

窓は本来外から光を入れるためのものであって、風景を切り取る作為はない。しかし石造の結果として額縁の役割をしたのであろう。それを逆手にとって額縁の関係とするのはありだが、それだけではないことを覚えておくべきだ。それによって窓の装飾も変わってくる。

 

 

・機能が必要かどうかの判断

居間と応接間が同じでいいのか、コンサバトリーが必要なのか。

機能とは本来必要に応じて加えられるものならば、コルビュジェの風船論のように吹き込んで入れるものならば、意志は施主にあるが、施主の知識や経験にない機能がある場合、専門家である建築家が提案していくことになる。知らぬうちに言語によって機能が規定されていることが現代だけど、こういう空間がほしいという漠然としたイメージから空間が立ち上がってくることも考えものだ。ある図式的なルールという言葉による装飾を否定するならば自分の立場としては一定のルールにより決める必要がないというポジションであるのか。

 

 

・本来調度品が家に揃ってあることなどない。なのにスタート地点が調度品で良いのか。自分は別に縛られているわけではない。できる空間がイメージとして先行しているだけで、「無駄のある家」という考え方が一番しっくりきている。吉田五十八の言説「完璧な家などない」もここに一致していると思っている。長い時間を経てこそ好きなものが集まってくるし、手放すし、好きなものがわかってくる。それこそがその人の様式(スタイル)なのである。これをロースは認めているのである。白洲正子もここに同じような考えをするはずである。時間が経たないとわからないことがある。「君には100年早い」という言葉の意味はここで力を発揮する。100年身に付けてやっとその母体に似合ってくるというものだ。決して年をとれば良いという話ではない。体と被覆が一緒に時を経なければ行けない。

調度品や家具も施主が時間をかけて集めてその空間にマッチしてくるということだ。ということは?

 

・ライトの思想について

「私は、身の回りのすべてに、成長するものの美を発見する。いや私だけでなく、この問題に注意を向ける人であれば誰だって同じであろう。さらに少々目を凝らせばそれがいかに「美」へと成長していくのか理解することもできる。無意味なものなどひとつもない。本能から大平原を愛していた。それが偉大なる単純性を示していた。」

 

「建物の中の地面と平行する面を大地と同化させることが、建物を大地に属するものと見せる上で極めて有効な手段になるということ(写真では表現できない。)こういう低い土地に建つ家は何よりもまず大地の上から建てていかなければならない。湿った地下室を大地の中に建てるなどもっての他である。家がその地面から始まったと見えるよう基礎のエッジを際立たせて基部の水平線を突出させ基盤のように造形した。それは建物自体を乗せるための明確な基盤となって、建物の構造を地面としっかり結び合わせたのであった。」

 

「住まいというものは、まず第一に庇護する覆い(シェルター)として見えなければならない。」

 

「住まい及びその中にあるものすべての比例を定める根拠は、人体の大きさであるということだ。人体寸法こそ建物の真の尺度なのだ。それ以外の尺度などあり得ないでないか?一体なんの尺度があるというのだ?人間に快適さをもたらすことだけを目指すことにした。私は過剰に作り込まれ、作り上げられた空間では、住み手が自由に動きまわることができないと感じていた。そこで自らの感覚に従い、水平線を人間生活の地平(安らぎの線)と捉えることにした。部屋の間仕切りをなくし、水平方向の空間を拡大した。」

 

「非衛生的な箱であり空間の無駄遣いの元凶でもあったクローゼットはなくなり、かわりに換気の良いワードローブが部屋ごとに取り付けられるようになった。」

 

「レシピでもなく、定式でもなく、原理が作品の中に移しいれられ、作用するとき、そこには必ず真の様式が生まれる。そしてそれは、固化した「ひとつの様式」のように葬り去られるべきものではないのだ。」

レシピや定式は過去の様式や図式的なルールのことを同様な意味であると解釈している。

 

 

「建築は、その安定した内的原理のおかげで、人間個性に嵌められた枠を限りなく拡張しようとしていた。新たな空間がそれ自身の技法の上に成立するとともに、すべての素材、すべての技法が人間生活に立脚したはっきりした言葉を、自ずと語り始めた。建築家は今やギリシャの空間像から解き放たれ、アインシュタインの空間像へと踏み込んでいけるようになったのだ。」

 

「人工的な素材の本性、天然の素材の本性がともに無視され、誤解されている状況では、有機的建築は存在しようがない。一体どうやったらそれを手に入れることができるのだろう?完璧なる相関関係、統合とはすなわち生命ということである。成長するものが単なる寄せ集めではないというのは、あらゆる成長についてについての第一原理だ。実体化された統合性こそ、何にも増して重要なものである。どんな物事であろうと、その部分部分それ自体に格別重要な価値があるわけではない。しかし調和した全体に統合され、その一部となるやいなや、その真価が発揮され始めるのである。これが統合性ということなのだ。偉大さと熟練を兼ね備えた私の師でさえ、素材をすべて同じに扱って設計した。どんな素材も、彼の豊かな想像力を受け止める原材料に過ぎなかった。彼は完全に芸術家としての人生を送った。」

 

「設計者の協力なしで住宅の周りにいかなる植物も植えてはいけない。これもしばしば破られる掟である。彫刻や絵画を飾るにも建築家の協力がいる。そもそも絵画や彫刻は、建物と一体になるべきものだ。しかしこれは叶わなかった。自分なりの調和するデザインをするしかなかった。」

 

「私は設計に用いる寸法を人体から持ってくることにした。私は人体寸法以外の尺度を信じなかったので標準の背の高さ(174センチ)に合わせて建物全体の高さを下げた。」

 

「人間の使いやすさと心地よさが設計者の個性の前に、なんらかの犠牲を差し出さなければいけない理由はない。それがあらゆる室内に親しく宿り、外観へと溢れ出すべきなのだ。装飾とはそれを一層魅力的かつ心地よいものにし、より適切なものとするために使われるものだ。」

 

「装飾を貼り付けた建物を作るくらいなら、左翼性の装飾恐怖症にかかって死ぬ方がまだマシだということだ。そうでなければ、逆に右寄りの建築家たちが装飾中毒症を患って恥多き死を迎えるのを目撃するだけなのだ。あらゆる時代物の建物、偽物の古典主義の建物と同様、自ら国際主義者を標榜するほとんどの異議申立人の建物は(作者自身は気づいていないようだが)実際、真にいかがわしい意味で装飾的である。まっすぐな面で切り取られた形は、それ自体のためである。形は大胆かつ単純であっても、それはこの時代の洗練された趣味がそう命じるからそうしたに過ぎず、だから軒下に走る装飾の帯にいささかも劣らず装飾的なのだ。こうした建物はすべて、いかがわしい、裏返しの意味で「装飾的」なのだ。なぜなら古典主義の古臭いオーダーをまとった建物と同じく、第一の統合の本性を無視し、四つの創作の源泉を無視し、素材に働きかける機械の本性を無視しているからだ。その当然の成り行きとして、両者ともに時間、場所、そして近代の人間生活の本性を読み誤る。」

 

「建築に最も必要とされているもの、それは人間の生活において最も必要とされているのとまったく同じ、統合性である。人間というものの最奥に統合された人格があるのと同じく、建物にもそういう透徹した統合性があるべきだ。遥か昔、建物にはそういう性格が自然に備わっていたが、以来、このことが建物に改めて要求されることは少なくなってしまった。成功が即材に必要だからだ。」

 

「家を照らすもっともよい方法は自然のやりかた。昼のうちはできるだけ自然光に近づけ、夜もなるべく昼のように。照明の第一条件は建物を適切な方位に向けることだ。人工光も太陽光に劣らず重要だ。南にいくらか傾きながら東から西へと進む太陽の運行を肌で感じている建築家ならきっと自然光を美しく扱うことができるはずだ。だからといって光を防ぐことも建築のできることだ。それを忘れてはならない。」

 

「敷物、カーテン、家具とは建物と同じ有機的性格のものである。」

 

「椅子はそれが置かれ使われる建物に合わせてデザインされねばならない。有機的建築では椅子は機械器具のように見えてはならず、建物が作り出す環境の優雅な一員として見えなければならない。」

 

「下にある素材の表情を殺してしまうような仕上げを絶対につかわない。代用品などもってのほかだ。木は木。コンクリはコンクリ。石は石。何か素材を選んだら、それ固有の美しさを最大限に引き出すことに集中する。」

 

「芸術作品として価値がある家は必ずそれ自身の文法がある。ここでいう「文法」とは組み立てられるものすべてに亜てはまるものだ。(組み立てるものが言葉であろうと石あるいは木であろうと)すなわち全体の組み立ての中に取り込まれている多様な要素、それらの間に成立している形態的関係のことだ。家の「文法」とはあらゆる部分の明確な分節である。これがその家が使う「話し言葉」になる。これを達成するためにはその組み立てが文法に則ることが必要だ。建物が用いる文法がどのようなものになるか、それを大きく左右するのが設計における感性の限界と設計に盛り込もうとしている素材の選択(もちろん予算も)である。あらゆるものが分節の中で関係付けられ、全体と関係付けられる。すべてがすべてに属するようになり、全体が一つのものに見えて来る。すべての部分が同じ言葉で語り始めるからだ。もし建物の一部がチョクトー語を話し、ある部分はフランス語、あるいは英語、単なる戯言を話しているようだったら、よく目にする建物、あまり美しくない建物が出来上がり、そしてそこで終わる。このように家に「文法」を適用することはそれはその家が「語られ」「話される」その仕方を定めたということなのである。だから芸術として理解されうる作品を作るためには一貫した文法をもって製作しなければならない。文法の一貫性は芸術家たる建築家の特性である。

 

 

 

・他者と建築家のバランス

設計者の選択と責任、他者の意見や批評、アイデアのバランス

他者に依存して、選択のプロセスを隠すのはダメだけど、他者の意見なくして能動的な態度でいる建築家もまたダメで。それを統合していくのが建築家のあるべき姿で、村野藤吾の論文はそれを主張しているものだと聞いた。

ライトのいう文法は一人の建築家が生み出すもので。