『陰翳礼讃』を読んだけど、ガチ感想ではない。

脳学をメジャーとしている知人に紹介されていた本。

建築学科なら読むべきだと言われておりました。

この受験前、論文書いているこの時に参考になることがあるのかと思いながらもとりあえず読んだ。

最後の解説に建築論の視点からの解説も付いていて是非読んでほしいとあったのでこれを見て教えてくれたのだろうと思うし、今建築家で活躍している人は一度は目に通す作品なのだろう。

やはり建築を専門としていない人の日常の捉え方は参考になる。

 

日本の陰の美学について、光に対する捉え方などが書かれていた。

もちろんこの本は建築だけではないが、初めのほうの美学の話は興味深い記述が多くあった。

 

日本人は暗いところに美を見出すというふうなことが書いてあったが、実際暗いところは日本人より西洋人のほうが好きなのではないか。

彼らのサングラスをかける習慣というのは彼らの目が強い光に対応しにくいから。

決してかっこつけではない。

かっこよくなってしまうのは否めないが。

目の細胞が弱いという言い方がベストでもないしベターでもないが、まあそのような感じにとってもらえればと思う。

 

日本人はそれに対してまあまあ光に強いほうだ。地理的にいっても赤道から少し離れたいるから光がそこまで強くないのかもしれないけど。

 

西洋の建築というのは組積造が起源にある。

風土的に建築はそこにある材料で作るのがもともとの成り立ちであったので、石が主流であった。

組積造は雰囲気があって耐久性に富むが日本の源流である木造と違い、窓、開口部が大きく取ることができない。

というのも石を重ねるので、構造上縦長にしか窓は作れないのだ。

まあこの縦長窓が風景を切り取る装置という捉え方をすると欧米人のコンポジションに対するセンスは知らぬ間に磨かれていくのだけれど。

 

日本の切り取りの装置は何かというと掛け軸に当たる。

というのは自分の解釈でなんとなくそんな気がする。

もともと夏を旨として作られていた民家はどれも断面的に開口部の位置や庇のやりくりをしていたはずだから。

 

 

話がかなりずれてしまったが、つまりは谷崎さんの解読格子がかかっていることは間違いないだろうし、暗いところに美を見出していた。というよりは、現実のものを認め、そこにどうにか美を見出そうと努力するのが日本人で、新たな美を追求し続けるのが西洋という解釈の方がしっくりくる気がする。

 

この論はアジアという括りでもダメだし、西洋という括りもいかがなものと思うが、日本と比較する意味で、ヨーロッパをまとめさしてもらった。

 

 

 

話は変わるが、古典絵画脱出を試みた画家にカンディンスキーというのがいたことをご存知だろうか。彼は絵画はこの世界において何かを模倣しているものではなく、類似された表象でもなく、ものとして「山」という現実のものと「絵画」というものは等価であるということをいった画家だ。彼の作品はひたすらに線や幾何学模様である円や四角が書いてあるがその線たちは何かを模倣したり、象徴化、抽象化したものではなくただ線なのだみたいなことを主張した。

 

実際にはそれは彼の経験から来ているはずだから思考を働かせた時点で類似になってしまっているのだが。

 

ところでどこにこの話がいくかというと

このような論の展開はプラトンのやつに似ているなと。

 

彼はイデアがこの世の最高のものであり、次にあらゆる自然が位置する。つまり山や紙やベッドなどの物がくる。これらはイデアの模倣である。その次にそれを類似させた、模倣した絵画というものは3次的なものであり、この世の中のヒエラルキー順に考えると低い次元のものである。みたいなことをいった。実際この論はプラトンの偏見も随分入っているがカンディンスキーの言わんとしていることと相反しているなと感じたのだ。

 

この模倣の行為は人間の魂に眠っていたものだし、ずっと昔からやられてきたことだから模倣か模倣じゃないか話は難しい。鶏が先か卵が先かみたいな話になってしまう。

 

 

まだ自分の浅はかな知見で文章を作っているので知識不足や本質を把捉できてはいないがこれからの論文のために、そして大学院中に本を出すという目標のためにとりあえず考えたことはここに残していこうと思う。

 

ガチ感想は少々お待ち下さい。