JIA 神奈川建築祭

正式名称ではないかもしれませんがご了承くださいね。。

あとでリンク貼っておきます。

っていってもこのイベント明日で終わりなんでもう遅いかもですが。。

 

横浜は馬車道駅のコンコースにて開催してる建築系のイベントに今日いってきました。

実は昨日もアルバイト先の事務所の模型搬入で行ったので2回目ですが、今日はシンポジウムがあったのでそれを聞きにいってきました。

 

神奈川県の大学7校の先生方が集まり、卒業設計の傾向を解説するというものでした。

来年というか今年、自分も4年生になるので参考になるかなと思い行きました。

まあ研究室の先生がそのトークセッションに参加しているという別の理由もありましたが。

 

まず各大学の先生が5分ほど自校の卒業設計の傾向について話し、そのあとに事務側が考えたお題に答え、対話していく形でした。

 

卒業設計の傾向の話しで、各大学のレベルもなんとなくわかるわけです。笑

というか明らかに明治、慶応、横国が頭一つ出ているものと思われますが。

 

さて感想。

傾向についてはどうでもいいというか関係ないので、あまり真剣には聞いていませんでしたが、社会的に考察して現代社会に訴える作品が多い。というのが主でしょうか。

傾向の話しで面白かったのが慶応の松川先生。

建築がどこまで計算可能なのか。計算可能なところがあるという事は不可能な部分もあるのではないかという自己への問いかけでした。

これは傾向とは少し話しがずれてしまうかもしれませんが、この計算というのは寸法の話しではなく、人の動きを含めた空間のあり方や、都市スケールで考えたときの活動など建築、建物のハードではなくそこで実際に起こるアクティビティにおいての話しであると自分は思いました。そこが面白いと感じた理由です。

 

東海大学の杉本先生の話しには頭がはてなになりました。これは話しが理解できなかったということではないです。都市、建築、インフラという言葉を明確に分離して、それを卒業設計の傾向としていた点にです。都市は建築やインフラ、人、様々なファクターから構成されていて、明確に範囲が決まっているわけではないはず。なのにそれを分けて考えていたのでどうなのかなと感じたのです。

 

工芸大学の八尾先生は学生の未来予想図についていこうと頑張っています。とかなんとか。笑そうになりますよね。先生側の頑張りは口に出しちゃダメでしょ。

 

とまあこんな感じでまず先生方の語彙力が明らかになるのです。

この時点で誰の話しに注意を向け、無視するかが決まるのです。

そんな事を考えているのは自分だけでしょうか。いやこれは多くの人がやっているでしょう。だって全部の話しを忠実に聞き取ってグラスプするには相当な労力が必要だし、インプットすらできなかったら意味ないので。聞く耳にもメリハリをつけるわけです。

 

さて本題です。事務側が考えたお題に答えていく感じで。

 

①美しい線を描くには。

②モノ派×コト派

③公共×個人

 

順々に行きましょうか。

①に対して先生たちの意見はこんな感じでした。というのを全部書くとまとまりなくなるので自分の意見と交えながら。

多くの人が最近の学生に対して不満を抱いているようですねこの課題には。要するに図面が読めない、書けないくせに模型だけできた風にしている。みたいな。

自分も気づいたのは割と最近ですが、建築ができる人って手書きで立体空間をすぐに表現できる人の事を指すと思うんです。立体の空間を頭でパッとイメージしてそれを2Dに起こす。これができる人はちゃんとトレーニングしたひとだけでしょう。自分も全然できないのでこれから頑張りますが。おそらくこの議題が出た理由の一つに空間のイメージまで描けているひとが少ないコトがあげられるでしょう。結構な数の模型やボードを見ましたが、思考の面を表現してもそれは設計とは言いません。しかしそういうひとが多いのです。このことについては②で詳しく述べたいと思います。

 

やはり先生がたはフリーハンドで表現を身につけるべきだという意見や、CADというソフトに頼ってしまっているからだという考えや、美しいの概念とはなんぞやみたいな事をいうひともいましたね。CADに頼っているのは悪い事ではなく、それを使いこなせば自ずと美しい表現、個性の表れになってくるのではないかと、これは松川先生。線の一本まで見ていくとコンピュータを使っているとみな同じ表現だけれども、郡になった時にその美しさに違いが出てくるという事ですね。それは課題をやる側の僕からしても感じる事で、フォトショップで人の添景を画像に合成する際、影をつけないひとがいるんですね。まず日々の視野が狭いのでしょうねそういう人は。僕自身はこれに気づきパース表現はトレースして自分のスタイルを確立しようとしているところであります。評価されるかは別としてですが。。

 

青井先生は考えた時間分、表現にも出てくる。と述べられていました。まさにその通りで建築を思考する時間と表現にかける時間は分けてはいけません。ボードをかっこよくしたいから案を途中で投げ出すなんて事はしてはならない事を示していたと思いますね。3年前期にゲストで来てくれた鹿島建設の人は思考する時間を多く取りなさいといっていました。ようやくこの意味の本質がわかった気がしました。遅いよね笑

 

この議題でも少し出てきたのが学生がヒューマンスケールに落とし込めていない点について。普段から身体スケールを体験しているならば、必ずそれがアウトプットされるのです。ヒューマンスケールで考える事は対して難しい事ではないです。しかし忘れてしまう人が多いです。これは自分自身も体験した事があります。コンテクストのない敷地で設計した時です。大きな敷地に美術館を建てましょう。という課題。あまり深くはここでは言いませんが、とにかく建ぺい率から考えてしまっていたのです。中庭をこれくらいとれればいいだろうと。しかし自分の作ってみた模型を改めてエスキスしてもらうとかなりのオーバースケールなのです。昔の様式建築でもないのに、身体にまで落とし込めていなかったのです。用途のみ与えられ、空間の設計は自由、機能も自由となったとき、必要なものがわからなくなってしまったのです。しかしエスキスを重ねるたびにそれがわかってきて最終的には構造以外解決しました。

 

これをきっかけとし、身体的空間と都市的空間を常に両方向から考えていなければならない事を学びます。卒業設計ではそこまでしないといけないのです。なので決める都市スケールの大きさがキーポイントになる事は間違いなさそうです。

 

ということでお次に参りましょう。

 

②モノ派かコト派か。これはハードかソフトかでも代弁できるかと思いますが、要するに思考回路における面白さを考えた案か、形、デザイン、見た目をその意味となすモノに対する回答か。最近の傾向としてはまたモノ派に戻ってきているようですが、一時は社会貢献の思考回路を楽しむ面が多く見られたようです。いやーこれは両方解決するべきでしょう。というかむしろ建築学科ならモノ派でないといけないんじゃないか。だって利用するのは人間以外の何者でもないんだから。最終的にヒューマンスケールに落とし込むのは当たり前でしょう。だいたい大きなスケールの問題を一気に解決するわけなく、住宅一つの設計で1人の人すら幸せにできるかもわからないのに社会問題に挑戦するなんて馬鹿げてるよ。そもそも建築だけで社会が変えられない、というのは青井先生の意見だけどもちろん賛同で、社会にはシステムやプログラムで解決、改善することがたくさんあって、卒業設計でそっち側がメインになったらあまり意味がないんじゃないかな。問題の解決策が解けたからといって形に表れてくるはずもなくて、そこには多く手を動かした者だけがたどり着ける境地があるのではないかと思う。自分もそれが何かは何も分からないけども。サブスタンスをひたすらに追求したからといってフォームにはならない。青井さんいわくこれはFS問題というらしいよ笑 フォームというかルームにしたほうがより分かりやすいかな。ルイスカーンという巨匠の哲学によると建築を構成する単位空間は部屋という概念であるとされていて全体的にオーダー、つまり秩序が保たれているということ。部屋の次にその空間を支配するのがインテリアってわけだね。建築とインテリアの境界線てどこかな。なんて考えることもある。みんなはどうですか。

 

ここで一つ疑問。先輩でただ一つの部屋が大きなタイヤの中に含まれてそれが世界の建築を支配するよ。みたいなぶっ飛んだ案を出した人がいてね。バカにしているわけではないけど僕の意見を述べさせてもらいます。

正直建築学科にいて4年間勉強してあれはないだろ。というのが第一でしょうか。建築の醍醐味ってその空間にある。もちろん場所っていう言葉でもいいかもしれないけどその空間にはまだ意味がなされてないという設定にするとそこは場所ではなく空間という表現になると思うんです。っていうその空間の設計が楽しいのにただ一つの機械みたいな部屋一つ作っただけ。なんて視野が狭いんだか。かっこよさのへったくれもない。それを建築と呼び、その建築は機械となり世界を支配する可能性はあるのでしょうか。先ほども書きましたが建築だけでは世界は支配不可能なのです。建築が機械として機能し、社会のシステムまでのっとってしまうのはどれだけ先の話でしょうか。

 

価値観という言葉はあらゆる多様性に対し、意味をなす。多様性こそがこの世界の魅力であり、人々が旅をする意義です。なのに世界が単一に統合された状態を描くのは間違っている。その場所には地霊がいて必ず個性が発生します。そのことを踏まえてもこの案の乏しさは明快だと僕は考えるのです。

 

この記事をその先輩が読まないことを祈るばかりです。笑

 

③の議題の前にもう少しこの続きを話したいと思います。

社会の求めているのは建物なのか建築なのか。

社会全体を包括しているのは建物でしょうね。建築はほんの一部。なぜなら多くの人がその空間の楽しさや豊かさに感銘を受ける感覚などもっていないからである。だから設計事務所は模型をできるだけ原寸に近い形で表現し立体の空間を分かりやすく提示する。これが理由でしょう!

しかし社会全体が要求しているからといって建築がなくなっていいかというとそれはないでしょう。分野、ジャンルという分類において建築は建物よりも次元は上なんですから。次元をどんどん下げてしまったらこの世界は本当に終わりですね。

それならプロ野球選手と小学生のリトルリーグの選手の区別なんてなくなってしまいそうです。

 

次元ていう言葉、次元ていう分類の仕方は正しいのかどうか分かりませんがおそらくこの視点はあまりみなさん持たないところじゃないでしょうか。知っている人は常にその分野においてトップを目指そうとするし、そうじゃない人はその世界を知らずに適当にこれが私流だからといって正当化するのです。

 

ひどい世の中です。

普通という概念さえなくなってしまいます。ん、この発言は自分でも良く理解できていませんが。。ヒエラルキーはこの世の中に必ず存在する概念なのです。。

 

まとまらずすいません。

最後です。

 

③です。

まずこの二項対立は対立してませんね。

公に対しては私なはず。

個人に対しては全体という日本語が正しいという指摘は青井さん。笑

 

やはりこの人の言語力はどこにいっても使えますな。笑

 

住宅レベルの動きがもしかしたら都市を包括し変化を与えるかもしれない。最終的に統合しないといけないことを考えると卒業設計において都市の概念の設定がいかに大事かが分かります。

 

ということで公私の間には閾という概念が登場してきますがこれに関してはまずインプットすらできていない僕ですんでやめときます笑

 

 

長々と建築に関して語ってきましたが批判、文句お待ちしております。

未熟な僕の考えにご教授願います。

 

明日は早稲田大学の講評会!

では!

 

あ!忘れていました。

追記。

www.jia-kanto.org